菓子祖の系譜を受継ぐ
塩瀬総本家 三十四代当主 川島英子さん
インタビュー


饅頭の神様の系譜に連なる
塩瀬総本家

 東京と中央区明石町、築地や銀座に近い都心に塩瀬総本家は建っています。
玄関を入ると右手にお菓子が並び、突き当たりには裏千家の茶室「又隠(ゆういん)」の写し「浄心庵」が静かなたたずまいを見せ、都会のビルの中とは思えない落ち着いた雰囲気です。

 饅頭祭りを取り上げるなら、是非お話を伺いたいと新幹線に飛び乗って訪ねた塩瀬本店。お茶一服をいただいてひとごこち着いた頃、大島紬をふんわり着こなした会長の川島さんが来てくださいました。
「饅頭の神様と言われている林浄因との出会いは京都建仁寺の両足院へのお墓参りからなんです。年に一度母と伺っているんですが、昭和54年だからもう20年も以前になるかしら。何気なくお墓のあたりを歩いていたら土まみれの石柱に『鹽』の文字が見えたんです。こすってみると『鹽瀬之墓』って刻んであるからびっくりして拝んで帰ったんです。翌年、母が亡くなって社長を継ぎましてね、気になっていたお墓を年代順に並べて改修しようと思ったんです。その時に過去帳や家系図を見せていただいて、ご住職が書かれたご本『黄龍遺韻』も読んだんです。そうしましたら、ご先祖の林浄因という方が日本の食文化に大きな足跡を残しておられること、代々の子孫は饅頭作りの継承とともに時代、時代の様々な文化へ深くかかわってきたことなどが分かったんです」

 川島さんは、林浄因のことを調べるうちに当時の日中交流、時代背景、文化史などひとつひとつ丹念に読み解いていきました。大学、国会図書館へ通い、古文書を繙きいていきました。
  東山文化が花開いた南北朝時代、傑出した禅僧の一人として知られる龍山徳見もまた中国へ渡り、禅を日本へ伝えましたが、その帰朝について来たのが林浄因です。禅僧が伝えたのは禅だけではなく、絵画、文学、書、儒教、そして食文化です。納豆、麩、豆腐、飛龍頭、湯葉、蒟蒻などなど日本の食生活の基本的なものがこの頃伝えられました。

 「林浄因は、中国の饅頭を禅寺でも食べられるように工夫して、中に肉ではなく小豆を餡にして皮でくるんだんですね。それまで小豆は食べられていたんですよ。植物蛋白で栄養がありますしね。ご汁のようにしていたようです。栄西禅師によってお茶が伝えられ、お茶と共にいただく点心は当時、柿や栗の干したものや小麦粉に米粉を加えて蒸したものだったんです。そこへ林浄因の作った饅頭が登場して評判になったんですね。林浄因は、都の京都から奈良二条に居を構えて饅頭を作りましたから『奈良饅頭』と呼ばれていたんです」

中国に顕彰碑を建立

 知るほどに林浄因の残したことの大きさを知り、故郷中国に顕彰の碑を建てたいと思うようになったといいます。早速関係の省庁に当たると、言い伝えだけでは碑は建てられない、実証するものが必要だと伝えられたのです。

 「これは私の大きな仕事だと思いましてね、大学の先生や研究機関へも足を運んだんです。するとどうでしょう、調べるとそれにつれて資料が出て参りましてね、驚きの連続でした。念願叶って顕彰碑は建てたのは思い立ってからわずか2年後のことだったんです」
林浄因の故郷抗州、名勝として有名な西湖の畔、呉越時代の皇帝の花園・聚景園の中心という絶好の地。
「建てるまでは大変でしたけど、建てたら管理費などは全く請求されないんです。そのご好意にと昭和61年の建碑以来毎年10月に『饅頭祭り』を開きましてね、紅白饅頭を2千個配るんです」

奈良から京都、そして江戸へ

 奈良で饅頭を作っていた林家は奈良に残る一族と京都へ移る一族に分かれました。京都へ移って「塩瀬」を名乗るようになったのだそうです。一族は応仁の乱の折り、愛知県塩瀬村へ疎開しますが、そこで城主の娘を 妻としたそうです。婚姻が認められ古文書にも残されているところから、林家は城主とも肩を並べる身分であったことが窺えます。塩瀬村で作られる饅頭はここでもまた評判となり、「塩瀬」が饅頭の代名詞となっていきました。「塩瀬」の名前はここがルーツです。
  長篠の合戦の時、当時の当主が徳川家康に陣中見舞いの菓子「本饅頭」を献上しています。家康は兜に盛って神社に供え、戦勝を祈願したので別名「兜饅頭」とも呼ばれます。この時以来、形も味も製法も守り継がれているという伝統菓子。

 徳川幕府が開かれて、三井家、白木屋、ヤマサ醤油など後の豪商となる商家が江戸へ移ったのは1600年後半のことで、塩瀬家も同じ時期に江戸へと移ったとか。江戸時代の塩瀬家についてはたくさんの資料があり、江戸文化の一翼を担っていたことが分かります。

 「長い歴史と伝統を知れば知るほど責任を感じます。明治、大正、昭和、平成とこの100年余りでも大変な変動がありました。その時代を当主がそれぞれの努力と才覚で守り、切り開いてきたということが歴史を繙くことで身に染みて理解できました」

伝統を受け継ぎ、伝える

 塩瀬家の一代記はとても一口では言い尽くせません。顕彰碑建立という目的で調べた塩瀬家の歴史はそのまま日本の食文化の歴史です。平成8年、川島さんはこれまで調べあげてきたことを一冊の本にまとめられました。ふんだんな資料に裏付けされた貴重な本は非売品なので手に入れることはできませんが、林神社のある漢国神社の社務所で拝見することができます。

 「塩瀬の歴史が分かると、責任の重さを一層感じます。私たちができることは一生懸命においしいお菓子を作ることです。奈良でもお買い求めできる『志ほせ』饅頭ひとつにしても、山芋は作るその日に皮を剥いてすり下ろします。一日に使う量も多いですから仕入れの確保も大変なんですが、長い間のおつきあいがありますからいいものを確実に手に入れることができるんです。小豆も北海道まで私が行きます。畑まで連れていっていただくの。生産する方とのコミュニケーションを大切にしてきたからこそ、おいしいお菓子ができんです。材料に嘘をつかず、手間暇かけることが伝統を守っていくことだとおもいますよ」

 後水尾天皇以来、皇室とのかかわりも深く、第二次世界大戦の時は戦死者への下賜菓子もここで作られたそうです。
「家族でお菓子を包んでいる時、ふと眠くなったんです。すると父がこのお菓子をいただかれる家族のことを思えば、眠くなったりしたら罰が当たると叱りました。戦後、預かっていた材料をお返しする時の父の涙は今も忘れられません。今は秋篠宮のお嬢様方へのお雛菓子、どんな器に、どんな形のものを作ろうかって考えているんですよ」

小さな愛らしいお菓子ひとつ、込められている思いを知れば、心して味わいたいものです。

平成12年2月21日
東京都中央区明石町・塩瀬総本家にて
聞き手・中島史子