KCN-Netpressアーカイブス

「マイヨールのブロンズ像を見て鋳造家になりたいと思った」と水島さん

もの創りの心と手

ブロンズ鋳造家   水島直春さん


イタリアでは車は拭かないがブロンズ像は拭く、日本と逆だね。

憧れのイタリアへ


木津町鹿背山に建つアトリエ

 前回この欄でご紹介した彫刻家・水島石根さんの実弟が直春さんです。アトリエもお住まいと同じ奈良市に隣接した木津町鹿背山の敷地内。大学で油絵を学んだ後、中学時代から憧れていたイタリアへブロンズの勉強をするために留学しました。「なぜイタリアに憧れたかというと『鉄道員』という映画を見てからなんです。ストーリーも勿論感動したんですが、あの貧しい家族が食卓でナイフとフォークで食事していたでしょ、あれが印象的でね。だってあの頃家でそんな食事することって無かったですから、いいなあ、豊かなんだなあって感心したんですよ。それから、なぜブロンズかというと父が彫刻家だったでしょ。作品をブロンズにする時は専門の工房に依頼するんですけど、その支払いをちょっと見たんですね。当時の千円札をどさっとわたしているんです。ブロンズええなあというわけです」


ブロンズは銅、錫、亜鉛、鉛を溶かした合金で作られる。水島直春さんの工房にて。

 有名な仏像木彫家・水島弘一さんは、志賀直哉、上司海雲、入江泰吉、須田剋太といった錚々たる人々が友人で直春さんたち兄弟も芸術的な雰囲気の中でさまざまな影響を受けたのだそうです。その中でナイフとフォーク、札束の話しは愉快です。ちなみに直春さんの直は志賀直哉の一字、春は上司海雲の本名一字を贈られたのだとか。そして本当のブロンズへの動機はこういう訳です。「やはり中学生の頃ですが、天王寺の美術館でマイヨールの彫刻展を見たんです。すると、父のブロンズと余りに違って驚いた。ヨーロッパのブロンズはロウ型、日本は砂型で手法が違うんですね。そ

の違いもあって、こんなに素晴ら しいものが作れるのか、自分でもやってみたいと思ったんです」 兄、石根さんの友人でイタリア在住の彫刻家が紹介してくれた工房はローマにあるジーノ鋳造所。「小さな工房でしたが、エミリオ・グレコ、マンズーといった世界的な彫刻家がここで鋳造しているんです。しかも、彫刻家と鋳造家の共同作業、コラボレーションですから話し合いながら作りあげていく。作品を渡してしまえば、後は全て任せるという日本のやり方とは全く違う。だから仕事は楽しくて仕方なかった。そうそう、入る時、僕は彫刻家として入ったんです。そうでないと、技術を盗みに来たと入れてもらえないんですよ。まあ、結構すぐに見破られてしまいましたけど、ナオって呼ばれて可愛がってもらいました」

 

人生を楽しむイタリア気質


溶かしたブロンズを型に流す

 イタリア留学は、大学卒業後、工芸会社に4年間勤めてからだから、20代後半から。日本人は若く見られ、煙草を吸っていても叱られたとか。
「イタリア人はいい加減だと思われているけど、決してそんなことはありませんよ。こと、自分の仕事には誇りと自信を持って妥協しないし、良く働きます。そして、感心するのは人生を楽しむ術を知っているということ。
パンと飲み物しか無いピクニックでもとにかく楽しい。どんなご馳走を食べたのかと思ってしまう位。いくつになってもいたずら坊主みたいだし、飲んで、食べ


砂の型にブロンズを流す作業は危険を伴う

て、歌って、女性をほめる。車の考え方も全然違っていて、僕が車を洗っていると笑うんですよ。雨が降ればきれいになるのになぜ洗うのかって。でもブロンズ像はちゃんと拭いています。日本は逆でしょ。ブロンズ拭いてるのなんて見たことない。それで、イタリア行った人が向こうのブロンズはきれいだなんて言ってる。どっちが豊かで文化レベルが高いのだろうと思いますね。
それと町並み。ちょうどオイルショックの頃、車は日曜日乗れなくなったんです。すると町はもう中世さながら。馬車が走って建物や彫刻も当時のままだし、とても魅力的でしたよ」すっかりイタリアが気に入ってしまった水島さんを心配したのが父、弘一さんでした。
「2年半位経った時、兄がファーストクラスの航空券を持って迎えに来たんです。まだ、海外旅行が珍しかった時代、高かったでしょうにねえ。もう、二度と乗られないだろうと思って帰ってきました。でも僕にとっては第二の故郷。毎年お正月はイタリアへ行くんです」

 ブロンズは銅85%、錫3.5%、亜鉛6.5%、鉛5%の合金で作られます。日本で作られる砂型は樹脂、石膏、木で作られた作品を砂で型どります。特殊な砂でここに二酸化炭素を送り込むと固まって鋳型ができます。ここに溶かした合金を流し込み、型から外し、仕上げ、色付けをしていきます。作品のもつ魅力を最大限に引き出すのも鋳造家の腕の見せ所。ヨーロッパで主流のロウ型はロウが溶けてしまいますから原型が無くなることとコストがかかるのだそうです。
砂は安価で手に入り、扱いやすいことから日本ではほとんどがこの方法。「要は溶接と溶接技術でどんなに大きなものでも作れるんですよ」美術専門の鋳造家は大変少ないとか。大淵池畔のこどもの綱引きの像、神戸オリエンタルホテル、木津町体育館にあるのも水島さんの工房から生まれたもの。
見回すといろいろな作品がここで作られているようです。繊細さと大胆さが要求される仕事ぶりを思い出しながら、町中の作品を見ると感慨もまた違ってきます。

1946年 奈良市生まれ
1969年 大阪芸術大学油彩科卒業
1969年 金井工芸鋳造所勤務
1973年 イタリア留学
1976年 木津町鹿背山の自宅にアトリエを開く


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