KCN-Netpressアーカイブス

もの創りの心と手

心が迸って絵になっていく
深く熱い想いを筆にまかせて
画家・島本芳伸さん


 毎回、個性的な絵で表紙を飾ってくださる島本芳伸さんのアトリエを訪ねました。明日香村に隣接する橿原市の高台からは多武峰、高取山からはるかに吉野の連山が見え、心がのびやかになります。島本さんの絵がここから生まれるのも納得です。 「僕が絵を志したのは小学校6年生の時に受け持ってくれた先生が、戦争から帰った人で戦争のために絵筆を置いたといわれたからなんです。そうやったら僕が、と思うたんやね」

 先生の果たせなかった思いをというのは余程先生が好きだったからでしょう。感受性の強い少年だったことがうかがえます。中学3年間も美術の先生が担任だったことも志を強くすることになったようです。当時奈良県にあった伝統工芸を継承していく為の工芸伝習生養成所へ入りました。

 「本当は大学へ行きたかったんですよ。でも父が倒れたりして断念、16歳で伝習生になりました。この時木竹工科で木工を勉強したんですが、役に立ちましたよ。額縁も自分で作るし、子供の玩具や椅子なんかもね。家も自分で作りましたから。17歳の時、姉が結婚するというので嫁入り家具を作ったんです。でもね、1年半で閉所することになって、大人て何と勝手なんやろう、いい加減なんやろうと思いました。生徒のことなんかちっとも考えんと自分らの都合ばっかりや。でも中には日本画の先生が家に来いと言ってくれて、教えてもらいました」

 同時期、東大寺学園の夜間高校へ入学、上司海雲、清水公照、筒井寛秀、といった名僧から指導を受け、深い歴史と豊かな自然環境の東大寺境内をフィールドに青春時代を過ごしたそうです。4年間担任だったのは守屋弘斎長老だったとか。

 「あの4年間は僕にとって大きな財産やね。先生も友人も環境も含めて。その後は独学です。17歳の時には製函を始めたから、仕事もしつつね。製函業というのは、母の内職の続きだったんだけど、絵専業になるまでの24年間続けたんですよ。大学へ行けなかったというコンプレックスかな、大学で百枚描くんやったら、僕は二百枚と20枚描こうと思ったんです。
B3の画用紙で1年に千枚の絵を描いたし、百号の大きさの油絵を百枚描いたこともあります。日本は一点秀作主義やけど、僕は野人やから描きたいだけ描いた。でもピカソも多作でしょう、彼も野人やと思うよ」

 絵を描くことへの情熱は今も変わることなく、一層深くなるようです。現在取り組んでいるのは滝の絵で約百五十号の大作シリーズ。吉野の山中にある滝まで畳一枚以上もある大きさの手漉き紙を持ち込み、現地で広げて墨を磨り描くそうです。百五十号の大きさを岩場でというのですから大変だと思うのですが島本さんは「ミネラルウォーターで墨磨って、川が筆洗なんて気分ええで。ウイスキーの水割りも同じ水やし、冬ならオンザロック」とまるで意に介しません。和紙に描かれた墨絵の滝は、ボードに貼り周囲を漆喰やベンガラ、柿渋など自然の素材を組み合わせた独自の表現法で仕上げられていきます。ハングリーな時代や素晴らしい人との出会いなどさまざまな経験や深い思いが絵に表れているからでしょうか、展覧会場にたまたま来合わせた人が胸に響くと絵を求めたり、人生相談されたり、絵を見て元気を取り戻す人がいたりするのです。

「発憤さえすれば何でもできる」という熱い思いが見る人を惹き付けて離さない絵。島本さんの人そのままのようです。

一陽会会員・日本美術家連盟会員
アトリエ 橿原市戒外122
10月16日(火)から21日(日)まで「第47回一陽展」大阪市立美術館(天王寺公園内)9時から17時



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