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被疑者を「無罪と推定」している人はいない

 和歌山の毒カレー事件に関して、産経新聞が平成10年10月30日のコラム「産経抄」で、「弁護士が被疑者に黙秘を勧めている」として弁護士を批判したことに対して、弁護士側が次のように反論していました(平成10年11月13日産経新聞)。

 「貴殿はどうして林らをクロと認定されるのかが私には理解できません」、「コラムを書かれている方の論法によれば林らは『クロ』と断定されるのですから・・・」、「既にクロと決まっているなら、証拠調べもの手続きも不要です。裁判も不要です」と言っています。

 産経抄は林をクロと認定しているのでしようか。決してクロと認定しているわけではないと思います。「クロをシロとねじ曲げているように見える」と言っているのは、もののたとえです。産経抄は被疑者の黙秘と、そうするように入れ知恵している弁護士を批判しているに過ぎません。それをクロと断定していると言って非難するのは不当です。

 このような言い方、考え方の背景には「無罪推定主義」と言う言葉に対する誤解があると思います。刑事裁判の常識として、裁判で有罪が確定するまではすべて「無罪と推定されるべきだ」と言う考え方がありますが、それが「無罪を前提として取り扱うべきだ」になり、さらに飛躍して「無罪の人として取り扱うべきだ」となってしまっています。これらの考え方に従えば、被疑者を有罪の人と推定したり犯罪者扱いすることは、すべてクロと認定した、許されない行為と言うことになってしまうのです。

 無罪推定主義というのは裁判の常識ではあっても、世間の常識ではありません。一般に使われる「推定」と言う言葉の意味ですが、推定と言うからには100%確実と言えないまでも、かなりの確率で結果が的中する事が見込まれなければなりません。つまり、裁判の結果、大半の被告人が無罪であったという結果、実績がなければなりません。ところが、現実には検察官が起訴した被告人は99%有罪という結果になっているのです。無罪推定と言う「推定」は結果としてほとんど外れていることになります。このような推定を世間の人は「推定」とは言いません。逮捕され、起訴された被告は犯罪者、「クロ」であろうと推定する方が妥当な判断であり、世間の常識なのです。従って世間一般の人(弁護士等の裁判関係者以外の人、新聞社を含む)に対して、被告人を無罪と推定しろというのは土台無理な要求なのです。「無罪推定」とは単に刑事裁判上、有罪を立証する義務は検察官にあり、被告弁護側には無罪を立証する責任がないと言うことを極端な言い方で、わかりやすく言ったに過ぎないものだと思います。

 刑事事件で逮捕されたり、起訴されたりすれば、一般の会社員や公務員はその段階で、解雇されたり、懲戒免職になります。裁判で有罪が確定するまでは「無罪と推定されて」給料を払ってはくれません。また、裁判でもそれらの処分は社会的制裁として、量刑を決定するに当たり斟酌されています。つまり裁判でも有罪確定前の社会的制裁は追認されているのです。このことからも「無罪推定」は現実的な意味を持った言葉ではないことが分かります。それに現実的な意味を持たせようとするところから、間違いが始まるのです。

 弁護士は、「被疑事実については予断を排し、証拠に基づいて、その有無について認定されていくと言うことです」と言っていますが、一般の人に「予断を排し」、と言うのは無理な要求です。人間は想像し推定する知恵のある動物です。また、物事すべてに証拠があり、立証が可能であるとは限りません。立証できないこともたくさんあるのです。立証できないからと言ってそれをすべて「分からない」として、そこで思考を停止するわけには行かないのです。推定や想像で議論する必要があることはいくらでもあるのです。裁判だって推定、推認はしょっちゅうです。また、証拠、証明と言っても、自然科学における証明と異なり、裁判における証拠、証明はあくまで人の判断によって決まるものであって、科学的なものではありません。証拠に証拠価値を認めるか、証人の言うことを真実と認めるかは、結局人の判断の問題です。新聞社が取材で得た情報を元に、有罪論、あるいは無罪論を展開しても何の不都合もありません。

 弁護士はこの他にも、「新聞社は取材で得た情報を捜査当局に提供するか、真犯人を捜査側に売るか」、とか「マスコミのインタビューは捜査妨害にならないか」、「罪の告白を聞いた教会の牧師は警察に届けるべきであると言う人がおりますか」、とか「江戸時代のような刑事手続きにはなってほしくありません」などと、およそ産経抄の批判とは関係ない、飛躍した議論を展開しています。
 このような反論を寄せる弁護士は業界の論理だけでものを言っているに過ぎず、批判の真意を理解していないと考えられます。 新聞紙上における国民の議論は司法の常識にとらわれる必要はありません。裁判で係争中の問題に、国民は意見を述べてはならないと言う事はないのです。

平成11年1月31日   ご意見・ご感想は   メールはこちらへ     トップへ戻る      目次へ