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友引が迷信なら、お盆休みも迷信か

 8月28日の読売新聞「論点」欄に、福井県武生市にある了慶寺の住職、藤枝宏壽さんの、「自治体は『友引』でも火葬を」と言う意見が掲載されていました。この人は今年6月8日の朝日新聞で、「『友引』葬儀避けないで」という見出しの記事の中で、ほとんど同趣旨の事を言っており、今回の記事は二番煎じです。前回との違いは、「部落解放運動」と「日曜休業」に触れていない点です。火葬場が休みだと遺族が不自由だから、年中無休にせよと言うのが、一応の趣旨ですが、内容のほとんどは「友引」に対する非難になっています。

 「日の良しあしが本当にあるのか・・・」とか、「六曜の配列法は全く機械的で、何の神秘性もない」、「友引という迷信は日本人の縁起かつぎ、語呂あわせ好みの俗習に過ぎないとも言えようが、日本人がスペースシャトルで宇宙を往復する時代になってなお、この迷信が善良な市民を現に陰で『束縛』している」などと言って、「友引」に葬儀を避ける習慣を「迷信」と言って、しきりに非難しています。

 さて、一体、迷信とは何でしょう。「友引休業」が迷信なら、キリスト教に由来する日曜休日は迷信ではないのでしょうか。星占いは迷信ではないのでしょうか。どうして、日本の迷信だけを非難するのでしょうか。日本の仏教徒がお盆に、亡くなったご先祖が帰ってくると言って、一斉に休業するのは迷信ではないのでしょうか。友引休業と五十歩百歩ではないのでしょうか。

 藤枝さんは友引休業をやめさせることを、「もちろん我々宗教関係者の責務である」と言っていますが、無神論者が言うならともかく、 宗教関係者にはその資格はないと思います。他人に対する安易な、邪教、迷信呼ばわりは、一部の宗教関係者にありがちな不寛容を示していると思います。

 藤枝さんは、「知人が、『友引で斎場が休みだから』と、お葬式を一日延ばし、その心身の疲労、経済的な負担が痛いほどよく分かった」と言われてますが、私はそのような話しはあまり聞いたことがありません。むしろ、よく聞くのは、「お寺にお墓を確保するのに何百万円もかかった」とか、「戒名をつけてもらうのに何十万円もかかった」、「お金の多寡によって戒名の字数や形式が違う」等の不満、不信の声です。葬式仏教に堕している仏教の改革こそ必要なのではないでしょうか。

 なお、記事の最後にある、「人間の生死は自然現象であり・・・」というのは、宗教関係者らしからぬ言葉だと思います。

平成11年8月29日   ご意見・ご感想は   こちらへ     トップへ戻る      目次へ