では河原者とはどんな人々だったのでしょうか。
例 その1
足利義教の伊勢神宮参拝にお伴する予定の万里小路家(までのこうじ 貴族)で騒ぎがもちあがっていた。貴族と付き合いのある扇屋で、下女が死去してその扇屋が穢(けが)れ,その穢れが貴族の下働きの息子を通じて貴族の家にまで及び、ひいては伊勢に参拝する将軍義教にも及ぶかもしれないからである。そこで、万里小路家ではさっそく扇屋に人を調査にやったところ、ひと安心ということになった。実は扇屋は危篤の下女をまだ息のあるうちに鴨川の河原者の家に運び出し、そこで死なせたのであった。(下女には残酷だが)その結果,扇屋も万里小路家でも将軍義教も穢れにはならずにすんだというのである。
(三浦圭一 或る河原者の春より 「部落の生活史」所収 部落問題研究所 1988年 )
例 その2
12世紀なかごろ,関白藤原忠通(ただみち)邸に仕えるある下層法師が亡くなった。関白の邸内で亡くなったということで,各種祭りも延期になった。調べてみると,その法師の妻が穢れの伝染を恐れて,まだ死ぬ前に清目に邸外に出させたということであった。担当した清目 きよめ(河原者)は死ぬ前に邸外に運び出すのに難色をしめしたが,妻の強い要請で外に運びだし,結局外で亡くなってしまった。清目が人を運んでいるのを見た目撃者が,清目が運んでいるからには死体に違いないと勘違いして,穢れの問題でもめたのである。
(丹生谷哲一 清目より 「中世の民衆と芸能」所収 阿吽社 1986年)
中世のけがれ観念の深さを知ることができる事件だが,同時に死体を処理する河原者の存在がよくわかる。
例 その3
鎌倉時代,歌人で有名な藤原定家が嵯峨の別荘にいた時,人間の頭だけが見つかった。そこで清目と称する者を呼んで片付けさせたとある。
例 その4
11世紀はじめ,河原者は牛の解体もやっていた。それからとれた牛黄を貴族に献じている。
例 その5 行刑役というのは具体的にどんなことをするのか
嘉吉(かきつ)の乱で討たれた赤松らの首は四条河原で河原者により薙刀(なぎなた)につけられた。武士たちと河原者1000人は都を練り歩いた後,河原者が獄門の木に首をかけた。
古代には処刑は市場で行われた。中世の処刑は河原に変化している。
1000人というのは多い気がするが,河原者といっても河原だけに住んでいたわけではない。12世紀の鳥羽殿には約100人,有力寺院にも30〜40名の河原者(庭掃き にわはき)が付属していた。
河原者にも多様な側面があった。今回の話だけでは没落民が河原に住み着き,人の嫌がる死体処理をさせられていたと思えるかもしれない。次回は別の技術者的な側面について述べて,中世被差別民の能力の多様性について触れます。
前回(1)一休さんをみる
ホームページに戻りたい