(山城の国一揆とは?)
 応仁の乱後の1485年(文明17)12月のころ結成されました。地域は綴喜(つづき)・相楽(そうらく)・久世(くぜ)の三郡でした。南山城といわれている地域で,おおよそでいえば,巨椋池・宇治の平等院から南,木津川沿いの地域,現在の京都府南部の城陽市・精華町・山城町・木津町などです。  当時の一揆は郡単位で結成されることが多く,おそらくそれがかれらの実生活圏でないかと考えられています。


(合戦があるとどうして困ったことになるのでしょうか?)  
 この近辺で畠山義就と畠山政長の両軍が対決していたのですが,田畑が兵馬で荒らされる・家は焼かれる・兵糧米が徴発される・陣地構築などに人夫が駆り出されるなどの問題が予想されます。  実際,この時は交通も途絶し,兵糧米も不足していました。近くの中世都市奈良でも人夫徴発や夫銭の徴発で住人が奈良から逃げ出していたのです。

(どのような経過を経て国一揆が成立したのですか?)
 国一揆側は越智氏(義就派)に義就が南山城から退くよう工作を依頼していました。それが実現したので,国一揆側は越智氏にかなり高額の礼金を出しています。そのためか,半済を実施し,それを礼金にあてています。
義就は結局南山城から撤退しますが,それが不満であったらしく,国一揆のメンバーであった椿井氏を切腹させています。国一揆の参加豪族はたいてい政長派でしたが,椿井氏はめずらしく義就派の人物であったのです。

(民衆も参加していたのですか?)
 この山城の国一揆には国人だけでなく,惣に結集した民衆も参加して独自の集会を開いています。ですから,国人と一般民衆が惣を媒介として結集したといえます。このような形態の一揆は惣国一揆とよばれています。その意味で,山城の国一揆は「国一揆」(国人の一揆)というよりも,惣国一揆ととらえるべきだという見解が強くなってきています。同じような惣国一揆は山城の乙訓国一揆・近江国甲賀郡中惣・大和の東山内一揆などにも見られます。

(幕府の奉公衆も国一揆のメンバーだったとか?)  
槇嶋氏・宇治大路氏など幕府の奉公衆が国一揆のメンバーとして参加していました。奉公衆はいわば将軍の親衛隊とでもいうべき存在ですが,そのかれらが,守護の支配を排除していたのですから事態は複雑でした。

(室町幕府はどのように対処しようとしていたのですか?)  
国一揆の前は幕府は畠山政長を守護にして支配を任せました。しかし政長は現地を掌握できていませんでした。そこで今度は,この地域の寺社本所領の半済分を幕府の御料国にして伊勢氏に支配を委ねようとしました。この時に国一揆が成立したのです。ですから,国一揆成立当初は伊勢氏の支配もうまくはいかなかったようです。

(国一揆はどうして崩壊したのですか?)  
これは中央政界の動きと関連があります。守護になった伊勢貞陸(さだみち)が南山城に影響を及ぼしはじめたからです。
伊勢氏は相楽・綴喜郡の支配を古市澄胤に任せました。そこで,古市氏に反対の国人数百人が稲屋妻城(精華町)にたてこもりました。かれらの多くは細川政元の被官でしたが,細川政元は明応の政変以後は古市と同盟関係にあり(以前は敵対関係),あえて国人たちには協力しなかったのです。

(山城の国一揆の成立の背景には別の見解もあるようですが?)  
基本的にこの地域に力をもっていたのは細川政元です。国一揆に参加した国人の大半は政元の被官(家来)でした。それなのに,なぜ守護の支配を排するような国一揆の成立を容認したのかという疑問が以前からありました。一つの推測として,細川政元もまだ完全にこの地域の国人を抑えたわけではないで,喧嘩両成敗の形で両畠山氏にこの地域から撤退させ,その影響力を排除しておいた上で,国人たちを支配下におこうとしたとする考え方もあります。

国一揆のページに戻る

近畿編に戻る