中部九州お城紀行(2)
[杵築城]
11時半、東京及び大分AP集合メンバーと合流。この城の見所は、創建当時、南北東を海に囲まれる断崖絶壁と、西城下の武家屋敷である。武家屋敷の土塀、あちこちの屋敷門に風情が感じられる。杵築大橋南端からの模擬天守遠望、ここのビユーポイントだ。光の加減も良く、何枚かシャッター切る。ここのコンビニで弁当購入、日出へ向かう。
[日出城(暘谷城)]
13時過ぎ到着。慶長6年(1601)木下延俊の遺構。本丸は小学校に占拠され、本丸周辺石垣を天守台へ歩く。野面積石垣、所々残っている感じ。本丸南・望海楼跡の石組、絵になる。しばらく時間かけて構図。天守台で座りこんで弁当開く。ここから見る別府湾の別府ー大分の海岸線カーブ素晴らしい。搦め手門から見る本丸石垣、落ち着いている。天守台周辺石垣、興味を呼ぶがやや光量不足。二の丸に裏櫓があったようだが、よく判らず。朝、立ち寄った鬼門櫓再訪。農家に買い取られて納屋になったというが、荒れ果てて、変な復興建物より趣有り。赤土壁、瓦屋根の二層櫓。東南隅欠けになっており、歴史を表わす。しかし、現地の案内板に鬼門櫓の表示がないのはどう言う事だろう。何とか補修の手を打って欲しいものだ。
[大分城(府内城)]
16時頃到着。夕暮れ迫り、駆け足登城。どうもこのお城は夕方しか訪城できないようだ。北の丸から城内へ。人質西隅櫓暫く眺め、御廊下橋を渡り城内突き抜け大手門外へ。堀越しに宗門櫓を眺め、大手門から櫓内側へ。外見単層で内側三層の珍しい構造。一度ゆっくりと午前中に南東側復元櫓群を歩いて見たいもんだ。日没後、渋滞のR10をドライバーさんの疲れを増幅しながら佐伯着19時すぎ。うまいもん通りの「どんどん安」で魚料理の夕食。ウツボのたたき、ホゴの味噌汁美味かった。
[佐伯城(鶴谷城、鶴ケ城)]
9時過ぎ三の丸櫓門へ。毛利高政時代(慶長)の遺構。毛利高政は秀吉に重用され、一級の築城技術者として対馬の清水山城、撃方山城などの天下普請の指揮を取り、日田隈修築、角牟礼修築のあと、佐伯城が集大成だったよう。この櫓門は、下見板張り、瓦屋根の重厚な、風格ある遺構だ。どこか、戦災に遭った青葉城大手門思わせる。門を入り御殿跡に市民会館が建ち、風情を壊す。御殿は住吉御殿として移築。本丸に向け800mの看板見ながら登城開始。石畳の坂道を約20分で本丸着。滑りやすく、やや苦労。本丸、約10mの高石垣、角が丸く一寸変わった石垣に疑問。本丸・二の丸間の虎口構造面白い。本丸北、水の手埋門あたりも興味を惹くが低い逆光で苦労する。二の丸東から下城するが石畳でスリップ注意で膝が疲れる。櫓門から北に歩き養賢寺まで寺院、武家屋敷続き趣有り。約50km走って、臼杵城着12時。
[臼杵城(丸山城、扇城)]
永禄5年(1562)大友宗麟創築、慶長6年稲葉貞道改造。市営駐車場から歩いて三分、古橋口(大手口)へ、
工事中で、北へ歩き月見櫓跡から二の丸に上がる。大手門工事中で土塁のうえから畳櫓北西面、二層瓦葺の
重箱櫓。落ち着いた櫓だが完全にド逆光。二の丸を東に歩き、大きな空掘を抜け卯寅口門脇櫓へ、基壇コンクリート固めで、懸命に維持という感。二層板張り、軒際白壁の重箱櫓。やはり歴史を感じさせる。南に下り,城外へ、南側の崖下の街中を歩き、畳櫓の真下に出るが電線のかたまりで展望不能。振り向くとお寺がよく見渡せ、南に約200m歩き、多福寺の境内に上がる。畳櫓完全に見とおせ作戦的中。午後早めまでのビユーポイントだ。近くの野上弥生子記念館近くの小手川商店で、黄飯の昼食。味噌汁、美味い。この後、大分へ送ってもらい、ホバークラフトで大分APへ、羽田行きと別れて、18時関空着。
4日間、10城のお城歩き、紅葉の最盛期で、ともすると石垣より紅葉にレンズが向きたくなりながらの行程だったが、約600kmに及ぶ大旅行をアテンド、ガイド頂いた、地元メンバーの方に感謝しつつペンを置きます。