岡山城登城記
[登城日]  99/10/2
[所在地]  岡山市丸の内
[別名] 烏城、石山城  [形式] 山城
[築造] 天正元年(1573)宇喜多直家、慶長2年(1597)宇喜多秀家
[遺構] 石垣、堀、月見櫓、西出櫓、復元天守(昭和41年)
[交通] JR 岡山駅より市電 城下 下車10分
[歴史的背景]
宇喜多直家が、金光宗高の城を奪取し本城とする。その後、宇喜多直秀が秀吉の指図で旭川の川筋を変え、石山東方に築城。その後、小早川秀秋、池田忠継と拡張、整備した。五層六階の天守は下見板を柿渋と瓦墨で仕上げ破風の木連格子も黒く塗り、「烏城」と呼ばれた。広島城とともに、秀吉時代の(関ケ原以前の)天守とされ、安土城を模したと言われる。石垣は天守曲輪、堀の たりの野面積、月見櫓周辺の打込ハギ はっきり残る。
後楽園は背後を守る、山里曲輪だったと言われる。
[登城記]
秋の気配を待ち兼ねて、瀬戸大橋城郭巡りに出陣。まずは、橋の手前で岡山下車。第一の目的は、天守北面の写真撮影。市電で城下まで。10分歩き、二の丸大手門へ、鉄門、下馬門跡を通り、天守曲輪へ、天守南面に
出る。最もポピュラーなアングルだ。天守礎石を並べて るが、実感なし。月見櫓から廊下門を抜けて、月見橋を渡り、後楽園の外周を旭川沿いに東進。散歩中のおじさん「天守北面は、順光になる時期は有りませんよ。復元図面は、東大の学生が戦争前の夏休みに、詳細なものを作っていてそれを基に復元したんですよ」と言っていた。北面撮影の目論見未達。関ヶ原以前の天守の特徴として、一階平面が細長い不整形で り、長辺側
の優雅な佇まい、短辺側のシャープな感じを実感できた。もう一つの特徴として、天守基壇と望楼との逓減率が大きく、 る意味で安定感。順光の北面は撮れなかったが、東面、北東面の写真が撮れ、満足の登城。