しまなみ海道お城紀行(1999/7/10-7/11)
7/10 9:31新大阪発ひかり で 福山 乗り換え、新尾道下車。
NIFTY 城郭フォーラムのメンバー集合。レンタカーのバスでスタート。
尾道大橋ー向島ー因島大橋ー因島
因島水軍城
史上、建造の歴史はないが、奈良本辰也氏の監修で 昭和58年に
建造された資料館。水軍船の模型など展示。山上にあるが、
全く海が見えなくて不思議近くに、本因坊秀哉の墓があるが、時間的に寄れず。
生口橋ー生口島ー多々羅大橋ー大三島
大山祇神社
全国の国宝・重文 武具の 80% が集まっているという。大楠と重文の本殿があり、参拝客が非常に多い。しまなみ海道の オープンで 続けばいいのだが。あまりに大量の武具があり、めまぐるしい。私としては、海事博物館の鉱石の多種類展示に非常に興味を惹かれた。昭和天皇の海洋生物研究用の採集船葉山丸を 呉から 移動保存している。
17時頃、富士見園入り。セミナー受け、海水の風呂に入浴。宴会で盛り上がる。
7/11 7:30 スタート。約20分で甘崎城へ。道路標識に「左海上160m甘崎城」とある。面白い。
甘崎城
[所在地]愛媛県越智郡上浦町甘崎
[建造]天智天皇10年 越智氏
[遺構]郭、井戸跡、石垣、逆茂木用ピット、海門跡
[歴史]中部瀬戸内海が最も狭くなる大三島の東岸に位置する水軍城。名前の由来は海防城(あまさきじょう)であろう。江戸時代、ドイツ人医師ケンペルがカピタン船で 沖を通り、著書「日本誌」に「水中よりそびえる保塁あり」と形容している。日本最古の水軍城であり、最後まで雄姿を見せた水軍城。
[登城記]
漁船で、目の前から城郭へ、本丸下の砂浜に飛び降りる。本丸への登城口、非常に峻険で、登城控え、砂浜周囲歩く。岩礁にピット跡。満潮時の為、岩礁ピット列は見えなかったが、俤充分。漁船で周囲を回ってもらい、三の丸先端の 石垣認める。
大三島の陸地から 目と鼻の位置に、水城を築いた理由がよく分からないが、権威の象徴として、土木技術の誇示があったのか。

大三島橋ー伯方島ー伯方大橋ー大島

能島城
[所在地]愛媛県越智郡宮窪町能島
[建造]応永26年(1419) 村上山城守雅房
[遺構]郭、石垣、ピット
[歴史]宮窪瀬戸の激流が渦巻き、天然の要害を形成する 能島とその属島鯛崎島に能島村上水軍 詰の城として築かれた典型的海賊城。天文12年(1543)跡目相続をめぐって、本家・分家間で激しい能島城攻防戦があった。この時、天下の要害の証明が出来、松明船で体当たり攻撃をかけ、守城勢を海におびきだす戦法がとられたという。
[登城記]宮窪で水軍レースを見ながら、船に乗る。聞きしに勝る 激しい潮流、あちらこちらに渦を巻いて、川の瀬の如くの海流。水位差が1mほどあるという。水軍城の歴史、まざまざと実感出来た。二の丸から上陸、石垣が美しい。下半分は築城当時のものらしい。二の丸から本丸へ、階段が整備され、草刈りも行き届き、手入れが非常によく、蛇の心配もなく、白石さんの説明に耳を傾ける。二の丸北側の 武者走り、きれいに残る。

大島ー来島第一〜第三大橋ー今治市内

今治城 (吹揚城)
[所在地]今治市美須賀町
[建造] 慶長7年 藤堂高虎
[遺構]本丸、二の丸、三の丸、内堀、石垣、復元櫓三、模擬天守
[歴史]蒼社川の三角州に立地し、北部に瀬戸内交通の要衝 来島海峡を控え、芸予諸島の制海権確保を目的とした。本丸、二の丸、三の丸を、海水の内堀で囲み(幅 54m,幅5〜7mの広い犬走り)野面積の石垣を巡らす。建物は明治初年取り壊し。天守は、五層六階、初めての層塔式で計画されたが、丹波亀山城に移築献上したといわれる。1980年 天守、多聞櫓、武具櫓再建 1985年 御金櫓、1990年 山里櫓を再建。櫓は 外観復元
[登城記]久しぶりの近世城郭で、胸躍らせたが、天守と櫓のバランスが悪くややガッカリ。天守の位置、形状がなんとなく シックリこない。
大手門から、反時計廻りで内堀の周囲一周。石垣は 殆ど直線的な野面積で犬走りの広さ、目に付く。櫓の配置もいい。山里門から二の丸へ、石垣の上を一周する東西隅櫓、月見櫓の位置、石垣俯瞰 素晴らしい。変な天守より この三櫓を復元してみては という実感。西からの、多聞櫓と天守のシンプルな アングルからの写真でやっと 満足。