信濃路お城紀行(2)


8時半スタート、小諸へ向かう。R142から旧中山道(笠取峠の松並木)を通り、山道で小諸駅着10時半。
[小諸城](懐古園)
室町時代、大井光忠が鍋蓋城を築いたが、天文23年武田信玄が攻略、改修・拡張し、天正18年(1590)仙石久秀が徳川大名として入城、現遺構はこの時代のもの。駅の北側に抜け大手門へ。民家の隅ではなく現在、公園化されゆっくり見通せる。五間の櫓門、二階は畳敷きの二室になり、寺院建築の様式。弘前の大手門とともに江戸初期の大手門として貴重な遺構だ。三の門から、二の丸へ、徳川家達の直筆「懐古園」の額、このあたり、穴城の姿はっきり。しかし、南西に進むとともに紅葉渓、深くなり、本丸西端の不明門あたりの展望台から、眼下に千曲川を望む断崖絶壁は圧巻。浅間山の中腹の街道から見れば、穴城だが千曲川からは見上げる断崖上で自然の地形に人工を加えた見事な
縄張りになっている。野面積みの天守台を見て酔月橋で豪快な空堀を渡り、郷土博物館へ、屋上からの浅間山眺望絶佳。浅間山の地形図による小諸城の位置関係、よく判る。「穴城素描」というポスターに目が止まり、職員さんに頼んだら、市役所まで、オートバイをとばして持ってきてくれた。荷物になったが素晴らしいお土産になった。駐車場脇のそばやで昼食。流石、信州の蕎麦だという感。
R18に出て約30分で上田着
[上田城]
天正11年(1583)真田昌幸が尼ケ淵城として築城。天正13年、慶長5年徳川の猛攻、圧倒的な兵力差を巧みな奇襲戦で守りきった。その後、元和8年(1622)仙石忠政が入城,整備。築造時から天守は持たず、七基の櫓を本丸に配した。北、南、西櫓が現存。三の丸方面(東)からアプローチ、花見客で駐車場は満員で、北側にまわり駐車。陸上競技場になっているが、このあたりが百間掘跡。北から二の丸へ、内堀沿いに南へ歩き、南北櫓と復元本丸東虎口櫓門正面へ南北櫓、瓦葺、入母屋造り、下見板張りの二重櫓。北櫓の石垣に真田石、尼が淵の土手を西櫓に移動。途中、抜け道につながったとされる真田井戸。西櫓、景観良し。尼が淵から見上げるもよし。徳川の猛攻に耐えた平城というが百間掘も尼が淵も近代化平地になりピンと来ない。

この後、松代城の予定を省略し、上田菅平ICー(上信越自動車道)ー更埴IC-(長野自動車道)ー松本へ16時すぎ、浅間温泉 菊の湯 入り。本棟造りの民家風建物、欅の大黒柱、太い梁、杉の皮と竹で編んだ生垣など、凝った造りで落ち着いた風情。料理も旬の材料を使った手造りで、従業員の対応も落ち着いて満足の一泊。

00/4/148時半スタート、流石にラッシュアワーだが20分で松本城着
[松本城]
豊臣家臣石川数正が城造りスタート、康長が完成させた。現存5層6階の天守は小笠原秀政が完成させたという。寛永10年、松平直政が辰巳付櫓と月見櫓を増築、複合連結天守を完成した。三の丸北西に車置き、内堀沿いに東側へ、二の丸南東に新装なった太鼓門。(平成11年3月完成)二の門(高麗門)と一の門(櫓門)、太鼓楼で枡形を形成、櫓門脇に、「玄蕃石」を配し128年ぶりに再現した。本丸への黒門とともに、大手門を加えて三つの枡形門があった。内堀に沿って一周し、三の丸南東の「日本民族資料館」へ、外堀馬出を含む城郭模型。二階から望む黒門と天守展望良い景観だ。

なかなか実現できなかった信濃路お城歩き、330kmの行程だったが、高島の朝夕登城、諏訪ー小諸の山越え旧中山道のドライブ、小諸の千曲川沿いの断崖絶壁、松本の太鼓門など、まずまず、記憶に残るお城歩きだった。