倭城(わじょう)とは
倭とは「わ」、「やまと」で日本を表わし、「倭城」すなわち、日本の城を意味します。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、出陣した日本の武将が韓国に築いた城を、現地の人が呼んでいる呼称です。
朝鮮の役は、前期の文禄の役、後期の慶長の役があり、文禄初期のみ日本軍が快調に勝ち進んだが、慶長の役末期は、韓国南岸に押し込められ、防戦主体になりました。倭城が盛んに造られたのはこの時期で、堅固な
縄張を持ち、長期篭城に耐える大規模なものでした。そこには、戦国期に発達した、日本の築城技術の粋が
集められています。
日本国内では、戦国期の城の多くが、その後近世城郭として「戦う城」から「見せる城」へ変貌し、或いは
廃城令で取り壊され、都市開発の波に呑まれて姿を消していったのに対し、「倭城」は400年の時を越えて
築城時の姿を留めています。
名城熊本城、福岡城の原点が残されているのです。
倭城として有名なものは、加藤清正の築いた西生浦(ソセンポ)城、小西行長の熊川(ユンチョン)城、黒田
長政の機張(キジャン)城などがありますが、いずれも面影をキッチリ残しています。