細川ガラシャの生涯を調べ尋ね、そして墓前にて“細川ガラシャ”を弾き捧げる旅



劇楽「細川ガラシャ夫人」鈴木 静一 作曲

マンドリン愛好家でこの曲を知らない人は皆無と思う。私もこれまで何度も演奏してきた。

<作曲者作品自筆解説>
本曲は織田・豊臣時代の動乱した世に明智光秀の三女に生れ、信長の媒酌で細川忠輿に嫁したが、父光秀の謀反に端を発した波乱多き37年の生涯を送り、最後は秀吉亡き後の豊臣方の策謀に抗して、自らの決意で侍臣の刃先を胸もとに受けて火焔の中に身を投じ、徳川幕府300年間 熊本城主細川の家系を永続させる礎となった麗しき烈婦細川ガラシャを描いた譚詩曲である。



この曲に対し、下記の通り私はイメージする。
序奏部Adagio・・・・・・・・・・・・・・・・・冒頭の短い叫びの様な強音はガラシャの悲運をイメージする。
Allegro・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・動乱相次ぐ当時の不安な世相をイメージする。
Andante・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・キリシタンの伸展を語る聖歌。曲調ははその頃信長・秀吉等に容認されたキリシタンの伸展をイメージする。
Allegro ma non troppo・・・・・・・・本能寺の変。ガラシャ苦悩の発端となった父光秀の叛乱をイメージする。
Adagio Pesante・・・・・・・・・・・・・・・戦乱の廃墟。民衆の悲哀をイメージする。
Elegante・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・優美なガラシャ。琴の音を偲ばせるギターにフルートのソロに端麗な容姿のガラシャをイメージする。
Lento espressivo・・・・・・・・・・・・・ガラシャのテーマ。ガラシャの悲運の哀愁ただようイメージ。
Poco Piu Mosso e stretto・・・・・ガラシャの苦悩。低音の不安な動きが世相の不安とガラシャの苦悩をイメージさせる。
Adagio・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・聖歌。ガラシャが心の不安をキリシタンの信仰に求める。しかし石田三成等の圧迫が・・・。
Presto・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・豊臣方の襲撃。人質になるようにとの強要に応じないガラシャに討手の軍勢が向けられる。
Lento Espressiro・・・・・・・・・・・・・ガラシャの死。自殺厳禁のキリシタンの掟により、侍臣小笠原小斉の刃先を胸に受けて死す。



ガラシャの末期の屋敷跡や墓が大阪近郊にある事から、今回ガラシャの生涯を調べ、史跡の訪問し、最後にそして墓前にて“細川ガラシャ”のガラシャのテーマ部を弾き捧げるべく活動を開始した。



《ガラシャの生涯を辿る “本能寺の変がガラシャの運命を変えた”》





1563年(永禄6年) 明智光秀と妻煕子の間に三女として美濃に生まれる 名前は玉(たま)。


<<生誕の地の碑>>
ガラシャ生誕の地碑(明智神社)の地図
P1010002.jpg 福井市東大味町(ひがしおおみちょう)明智神社
明智光秀の住居があったのが現在の東大味町土井之内にある明智神社付近であり、明智玉(1563〜1600,後の細川ガラシャ)生誕の地である。 有能な武将であり、また茶道や華道にも精通していた教養人であった。玉もその血筋により、幼いころから文学をはじめ、茶道・華道などに精通し、儒教の精神を基本とした教育と躾を受けて玉は美しい娘へと成長していく。

写真はサクラオフィスの櫻井様のご好意によりお借り致しました。


1578年(天正6年) 父の主君織田信長のすすめによって細川忠興と結婚 玉16歳 媒酌は織田信長 。
玉は美女で忠興とは仲のよい夫婦であり、2人の子供が生まれた。丹後の三戸野に幽閉されるまでの3年間の幸福な新婚時代をここ勝竜寺城で過ごした


<<勝竜寺城>> 京都府長岡京市勝竜寺13-1  TEL 075(952)1146 休城/毎週火曜日 入場料/無料
             1339年(暦応2年)築城、1992年(平成4年)勝竜寺城公園として完成
勝竜寺城への地図
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しかし1582年(天正10年)6月、玉20歳の時、父の明智光秀が、国を平定しようとしていた織田信長にたいし、突然謀反をおこし、織田信長を本能寺で倒すという、歴史上の一大事 “本能寺の変”がおこった。主君・織田信長を討って自らも滅んだため、玉は「逆臣の娘」となった。

このころ細川家は丹後宮津城主になっており、重臣会議で玉を何らかの形で切り捨てなければ、世間に対して立場がないということになったが、夫細川忠興は玉を愛していたため離縁 する気になれず、1584年まで彼女を丹後の味土野(みどの)(現在の京都府京丹後市弥栄町字須川)に隔離・幽閉した。この間の彼女を支えたのは、明智光秀が付けた小侍従や、 細川家の侍女達だった。


  <<ガラシャの隠棲地の碑>>
ガラシャの隠棲地の碑への地図
P1010002.jpg 逢うとみて 重ぬる袖の 移り香の 残らぬにこそ 夢と知りぬる

町内でも山深い須川・味土野(みどの)にあるガラシャの隠棲地『女城跡』は別名御殿屋敷ともいわれ 父・明智光秀が本能寺の変をおこした1582年から12年までの2年 間ガラシャが幽閉されていた場所です。谷を挟んだ向かいの丘陵は『男城跡』でガラシャに付き従った家来達の居城の跡といわれています 。

写真は京丹後市役所様のご好意でお借り致しました。



父の事、そして夫の事、2年間でのいろいろな考えが頭のなかで混乱していた玉は、ここではじめて小侍従マリアからキリスト教を知ることになる。なにかにすがりたい孤立感がキリスト教へ玉は没頭していった。それ以後彼女の苦難の生活が始まる 。

1584年(天正12年)3月、織田信長の死後に覇権を握った豊臣秀吉の許しを得て、細川忠興は玉を大坂玉造の細川家の大坂屋敷に戻した。

しかしこの間、細川忠興は宮津城に側女をおいており、なおかつ妊娠させていたことに玉は激怒する。次第に夫を客観的な目でみることになり、失望の枠はますます拡大していくのであった。


<<越中井>> 大阪府中央区法円坂1-2-1 地下鉄中央線森の宮駅下車・南西約100m
この付近は大阪城下にあった細川忠興の屋敷跡である。
越中井、大阪カトリック教会への地図

越中井は細川忠興の屋敷邸内にあったものと言われてる。写真の緩い坂を2,3分登ると森之宮青少年会館の楽屋である 。青少年会館も屋敷の上に建っているのかもしれない。
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P1010002.jpg “散りぬべき 時知りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ”


これらの人生の変転、大きな失望の中で、玉は心の安定をキリスト教の教えに求めてキリシタン大名高山右近らと交流しキリストへの信仰に興味を持ち さらに侍女清原マリヤによって次第にキリスト教へと深く導かれる。
 1587年に夫の忠興が九州出陣し、彼女は意を決して屋敷を抜け出しキリスト教会に向い、カトリックの教えを聞きに行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、玉は修道士にいろいろの質問をし、洗礼を求めたが、素性を明かせない為に受洗が出来なかった。
教会から戻り、玉は大坂に滞在していたグレゴリオ・セスペデス神父のはからいで密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けた。この時三男の忠利と13名の侍女が共に受洗をした。


<<大阪カテドラル聖マリア大聖堂>> 大阪市中央区玉造2-24-22 TEL 06-6941-2332 越中井からすぐ。拝観無料

1894年カトリック玉造教会として「聖アグネス聖堂」が建立された。ザビエル来日400年記念の年に「聖フランシスコ・ザビエル聖堂」となり1963年に司教座教会「聖マリア大聖堂」となった。カトリック大阪司教区の中では代表的な教会である。越中井からは2〜3分の距離にある。正面入り口の左側には高槻城主高山右近の、右側には細川ガラシアの白い像が建っている。堂内に張られたステンドグラスが美しく荘厳な中にも暖かい雰囲気が漂っている。 P1010002.jpg P1010002.jpg

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P1010002.jpg 聖堂の中。ステンドグラスからの淡い光の中、静かな時間が流れる。

P1010002.jpg 屋敷内で迫り来る炎の中、十字架に最後の祈りを捧げるガラシャの姿。

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P1010002.jpg P1010002.jpg 散華350年に建てられた碑。

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P1010002.jpg この大阪城の付近もその昔、様々なドラマがあったのだろう。

大聖堂内部の正面の大壁画と左右にある壁画は故堂本印象画伯の筆によるものです。大小およそ100の窓は羽淵紅州氏によるステンドグラスが施されイエスキリストの生涯と洗礼・聖母マリアの生涯・そして小聖堂には日本人に福音を伝えるフランシスコザビエルが描き出されています。天井にかかげられた大十字架および聖母と聖ヨハネの・十字架の道行14場面・大聖堂の内陣右側にある聖アグネスと小聖堂のフランシスコザビエルの像はオーストリアの彫刻家ルンガルチエ氏による木彫りです。聖堂前の両側にる高山右近と細川ガラシャ夫人の像はカトリック信者でもある阿部政義氏の手になるものです。    (玉造教会のパンフレットより)


その日以降ガラシャはキリスト教徒としての生活が始まった。しかし、後に1587年(天正15年)秀吉はキリシタンの禁令を出し、キリスト教徒を長崎に追放し、大名は許可無くキリスト教を信仰することを禁じられた。細川忠興は家中の侍女らがキリスト教に改宗したことを知って激怒し、改宗した侍女たちを追い出した。幸いにもガラシャは発覚を免れた。
キリスト教徒への迫害は日増しに強まった。ガラシャは大名の妻であり又キリスト教徒としての自分の選択を迫られた。ガラシャの苦悩はさらに深まる。

1598年(慶長3年) 豊臣秀吉死去。再び天下が乱れはじめ、豊家家臣石田三成と徳川家康の2台勢力が真っ向から対決する事態になったとき、またしても細川家は、つらい出来事にまきこまれることになる。徳川方についた細川忠興を寝返らせるために、石田三成は、細川忠興の妻ガラシャを人質にとろうという動きをとる。1600年(慶長5年)7月17日(8月24日)、徳川家康が上杉討伐に兵を起こした間に石田三成は、細川忠興不在の細川家屋敷に軍勢を差し向けガラシャに人質になるよう強要したがガラシャはこれを敢然と拒否した。
その翌日、石田三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原小斎に命じ胸を突かせ死んだ(自殺はカトリックでは大罪であるため)。 このあと、小笠原小斎は屋敷に火を放ち自刃した。

享年38歳 薄幸の生涯を閉じたガラシャは次の辞世の句を残した。

”散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ”


ガラシャの死の数時間後、オルガンティノ神父は細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、教会で彼女の為に葬儀ミサが行われ、堺のキリシタン墓地に葬った。細川忠興はガラシャの死を深く悲しみ、後に大坂の崇禅寺へ改葬した。


<<祟禅寺>>
大阪市東淀川区東中島5-27-44 TEL 06-6322-9309 入場料:無料 阪急京都線崇禅寺駅下車 北200m JR新大阪駅から徒歩20分
崇禅寺への地図

近日、ここで最大の目的であるガラシャの墓前にて、"細川ガラシャ"のElegante〜ガラシャのテーマ部を演奏、フルートが無いのでMDデッキを用意し、心を込めて弾く予定。



<<京都大徳寺高桐院にも夫忠興と彼女の墓がある 。>>
大徳寺高桐院の地図
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P1010002.jpg この寺は慶長6年(1601)に、利休七哲の一人とうたわれた細川忠興(三斎)が、父の藤考(幽斎)の菩提所として建立したもの。客殿の西にある庭は細川家代々の墓所となっており、そこに建っている石灯篭が、三斎とガラシャ夫人の墓塔となっている。
これはもともと利休秘蔵の灯篭であったが、豊臣秀吉と三斎公のふたりから請われて、利休はわざと裏面三分の一を欠いて疵物と称して秀吉の請を退けた。のちに利休割腹の際、あらためて三斎公に遺贈された。

写真は小泉様のご好意でお借り致しました。

《また熊本の泰勝寺跡「細川家の菩提寺」にも夫忠興と並んで彼女の墓がある。》

泰勝寺跡の地図
P1010002.jpg 細川家の菩提寺泰勝寺跡です、ここは 細川家初代藤孝夫婦と二代忠興夫婦 の墓「四つ御廟」をはじめ、第十代以下 の藩主の墓があります。

尚、写真は熊本市北西部にお住まいの“ひろさん”のご好意でお借りしました。

P1010002.jpg 泰勝寺跡一帯は 現在立田(たっだ)自然公園になっています、尚お隣は細川元総理大臣の 私邸です、この公園は細川家より熊本市がお借りして公園として管理しています。

P1010002.jpg ここは 細川家初代藤孝夫婦と二代忠興夫婦 の墓「四つ御廟」をはじめ、第十代以下 の藩主の墓があります。 公園入り口とその説明板です。

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P1010002.jpg 細川ガラシャ夫人の説明板と、夫人愛用のつくばいです。

P1010002.jpg ガラシャ夫人の御廟と夫忠興の御廟です。「四つ御廟」の中に並んであります。

P1010002.jpg ガラシャ夫人の御廟です。

<越中井>“ガラシャ最期の地”
大阪府中央区法円坂1-2-1 地下鉄中央線森の宮駅下車・南西約100m、青少年会館から徒歩2分

<祟禅寺>“ガラシャが静かに眠る場所”
大阪市東淀川区東中島5-27-44 TEL 06-6322-9309 入場料:無料 阪急京都線崇禅寺駅下車 北200m JR新大阪駅から徒歩20分

どちらも森之宮青少年会館、新大阪メルパルクホールの近くである。フェアや演奏会の合間に出かけてみては?


<追記> 細川元首相が1994年に佐川急便グループからの1億円の資金流入問題等で首相退陣した時にガラシャ辞世の句を引用した・・・・・・これは興醒めですね。