- 那智山青岸渡寺通称那智山寺沿革
-

仁徳帝(313〜399)の御代に印度より裸形上人が(釈尊入滅後882年頃)一行六人と共に熊野浦に漂着し、熊野の各地を巡歴し那智大滝に於て観世音を感得し今の堂の地に庵りを造り、其後推古帝の時に(593〜629)大和より生仏と云える聖が来て、玉椿の大木に如意輪観世音彫刻し、前の観世音を胸に納められたと寺伝されている。
この時代作金銅仏八体が発掘され現存している。
かくて裸形、役行者(637〜704)伝教(757〜822)弘法(774〜836)智証(814〜869)叡豪(1038〜1112)範俊を那智七先徳と称して神仏合体修験道場となっており、殊に快慶は弘仁三年(812)に熊野別当に初任され智証は32才承和12年(845)に熊野三山に詣で那智大滝前にて法華八講を論議され三井寺修験の初祖になられた。
特に如意輪法を体得するため大峰奥駆修行をなし、天台、真言の教義を信ずる人達により熊野十二社権現としての形態を充実し、建物も増加、又、歴朝の尊信も篤くなり本宮・新宮・那智を熊野三山と呼称し本宮は阿弥陀、新宮は薬師、那智は観音とし現世と未来の二世に亘る信仰の対象となったのがこの当時の思想であった。
なかにも人皇65代花山帝は法皇となられ永延二年(988)に那智山に入り、三年間を二ノ滝前の場所に庵を造り円成寺と称し参籠せられた。
その時のお歌に「木下を住かとすれば、おのづから花みる人になりぬべきかな」
かくて観音霊場巡拝の旅に出られ当山の弁阿上人も供挙し、今後毎年順礼あるべしとの指示を蒙り、お脊板(三十三体の観音と熊野三尊安置)を拝領し観音信仰の普及に努力し、世に三十三度行者と名付け三十三所霊場順礼が行われる様になり当寺が第一番札所になった記録は三井寺大僧正行尊(1135)の道中記では六番であるが、長谷僧正の久安六年(1150)の記録には如意輪堂一番でお滝の千手堂が二番であり、次いで三井寺の覚忠が応保元年(1161)に七十五日間で順礼せる記録では、一番に記しているこれより第一番札所で、関東地方より西国なれば西国の二字を加えたものである。
斯様にして鎌倉時代の元享頃には一山は整備され熊野まんだら図絵の如く隆盛をきわめ、徳川時代には三十三所観音が各地方に安置され順礼することが盛んになった。
然るに明治の年になって神仏分離の制令は一山を極端に荒廃せしめ二十有の坊舎、本願七ヶ寺等は衰えたので那智権現は明治四年に熊野那智神社と称し、如意輪堂は明治七年に独立し徐々に復興努力し今日に至る。
(那智山青岸渡寺 冊子より)
|