- 崑崙山昆陽寺略縁起
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当昆陽寺は第四十五代聖武天皇の御代、天平五(733)年勅願所として行基菩薩によって建立された。
「古今著聞集」に行基が有馬温泉に行く途中に発願して建立したとある。
神亀年間(724−29)に朝廷に奏聞し、勅許を受け東は伊丹坂、西は武庫川、南は笠ヶ池堤、北は後通墓の四方を限りとする方五十町の地。
これを菩薩引率の三十六客からなる民族を二十二県に分処して庄司、村主となし、遠近住人の協力を得て、田畑を開き、昆陽池をはじめとする大小池十二ヶ所、堀川四ヶ所、樋三ヶ所、溝流七ヶ所、堤塘二十ヶ所などを築成し灌漑を図り、水田一五〇町を耕墾。
その頃の当地は「万葉集」にも詠まれているような猪名野笹原の荒地であった。
又、職なき者には業を授け、或は貧しき人には資を与えられた。
後々これを昆陽の庄と名づけ、その中心四町四面の中に七堂伽藍、僧坊、堂宇を建立、昆陽寺とした。
半丈六の本尊薬師如来、十一面観音、歓喜天、文殊菩薩、持国天などの尊像、菩薩自らの自画像を作り安置する。
毎年七十二度の神事仏事を修行して国家安全、五穀豊穣などを祈願した。
又、寺領の地利、即ち西国街道(国道171号)が通る交通の要所でもあり、布施屋を設け、病人、孤独、貧しい人々を救済し、社会福祉事業の拠点となる。
かくして昆陽三十六坊甍をならべ荘厳美をつくし、又、菩薩の得を慕う者数多く来集し、次第に隆盛をきわめ、天平勝宝六年二月二日菩薩遷化後も遺弟光信法師、法義、善添、福尋、清浄、首勇等、代々出世して院家を守護して来た。
その後度々災火の難に遭い、殊に天平七年(1580)に織田信長が伊丹城主、荒木村重を攻略時、兵火にかかり堂塔伽藍が灰燼に帰したが、行基菩薩の徳を讃仰する信徒、地利の恩恵に浴する行基氏子の信者が物心両面の力を合せ昔の遺跡に現在の堂宇を再建、今に至っている。
しかし、平成七年(1995)一月十七日午前五時四十六分、兵庫県南部大地震(阪神淡路大震災)により数百年の歴史が崩壊。
震災直後より本堂再建、行基堂解体修理、山門解体修理、観音堂解体修理、鐘楼堂補強修理、宝堂補修、土壁修理など復興工事に着手。
平成十年五月に完成をみた。
兵庫県と伊丹市の指定重要有形文化財として山門、観音堂、行基堂内の二天(広目天、持国天)、鐘楼堂がその指定を受ける。
(崑崙山昆陽寺 冊子より)
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