住田君の思い出

2006年9月に野球部の仲間であった住田憲亮君が癌のため逝去されました。

大学卒業後阪神電鉄に入社して、晩年は取締役となり、灘の後輩である村上世彰さんと阪神電鉄TOBに関してタフな交渉をされていたとお聞きします。彼のご冥福を祈り、高校時代を少し回想してみたいと思います。

 

私は住田君と中学、高校を通して約6年間バッテリーを組んでいました。

先輩たちがなしえなかった「1回戦をなんとしても突破を」との思いで、高3の4人(筆者、春田、住田、板橋)がチームに残りがんばっていました。その1回戦は、昭和45年の7月17日だったか、とても暑い日でした。住田君の好投により1−0でリードしていましたが、8回裏に1点を返され、延長戦となり均衡状態が続いていました。グランドはとても暑くて、水を飲みたいのを我慢していたという思い出はいまも残っています。延長12回、ワンアウト3塁で、我々の監督が相手のスクイズをみやぶり、サヨナラ負けを回避できました。延長14回に我々が1点をいれ、その裏の攻撃を住田君がおさえて勝利しました。最後の瞬間を、いまでも昨日のように鮮明に覚えています。2アウト1,2塁、ショートゴロで粕谷(2年)からセカンドの堀家(2年)にわたりゲームセット。涙が止まりませんでした。

 

1週間後の2回戦では、7回表まで7−0でコールド勝ち寸前であったにもかかわらずけをしました。ポテンヒットを2本打たれたあとは、おぼろげにしか覚えていません。すべてのヒットが三遊間にぬけていき、市立尼崎の選手がダイアモンドを次々と走っていく姿のみが思い出されます。チームメートのだれかが落ち着くことができれば、流れを断ち切ることができ、4回戦くらいまでいけたのではと思っています。

 

住田君は練習嫌い。もともと細いが筋肉質で運動はなにをやらせてもうまい。ピッチャーなのでグランドをはしるようにいっても(私がキャプテンだった)、どこかで手を抜いていました。もし、かれが野球に関して多くの努力を惜しまなければ、我々を甲子園に導いてくれたかもしれないと思っています。東大入学後、野球部にはいったので、神宮での活躍を期待していましたが2週間で退部されたのは残念でした。理由は長い髪の毛をきれといわれたことと、ピンクのジーパンをはいてくるなということで住田君らしいと思いました。

 

私は、高校3年まで野球をすることができ、先輩たちが何年もの間できなかった1回戦を延長戦で勝てたことは、その後の私の人生にとってなにものも代え難い達成体験として心のなかに刻まれています。

2007-8-15