保険医協会東北被災地訪問に参加して

3.11原発事故後の福島の状態を新聞やテレビで見聞きすることは多い。原子力問題を考えると、どうしても福島やその他の被災地の状況がどうであるかをこの目でみたいと思うようになった。私の関与するメイリングリストなどでいろいろと知り合いのつてをさぐった。しかし、土地勘がない私が、ひとりで福島にいっても「広すぎて何もわからない」のでは、との否定的な意見を多くいただいた。どうしようかと思案しているときに、保険医協会から震災地を訪問する計画があることを知った。福島限定ではなかったが、「渡りに船」とはこのことですぐにお願いした。テレビでみたあの風景は、自分の目で見ればどんななのだろうか?実際にみてみるとどんなことを感じるだろうか?

12月22日夕方に伊丹空港から花巻空港へ、翌日は車で釜石市、大槌町を通って、陸前高田市、気仙沼市を訪れた。気仙沼では仮設住宅をケアしている人たちと懇談し、5名のメンバーのうち私は、23日の夜に西宮に帰った。

22日の夜には、青森協会の大竹会長と被災した陸前高田病院の石木院長と会談した。津波の当日、陸前高田病院が孤立したのはテレビで知っていた。しかし、実際にそれを体験した人から、当時の話をうかがい、また翌日に現場を見せていただいて、テレビとはまったく違ったものを感じた。

被災直後、病院は多くのボランテアを受け入れた、いや彼らに来てもらわなければ病院運営をできなかったいう方が正確かもしれない。しかし、ボランテアにこられたほとんどの人は、いろいろなことを教わりなにものにも代え難い貴重な経験をさせてもらったと言われ、一方、ボランテアを受け入れた病院側の人たちも、ボランテアの方から学べたことも多かったとのことであった。彼らとの懇談の中で、卒後の地域医療研修枠として被災地の地域医療研修を1ヶ月義務にすべきではないかという話におよんだ。

翌日に、すべてが破壊された町をみると、石木先生の、被災地の人はまったく希望をもてなくなっているという話も納得できた。コンクリートの基礎のみ残している広大な古代遺跡のようにみえた。例外的に残っていた鉄筋コンクリートの建物でも、1−2階は完全に破壊されていた。訪問した町はすべて同様であり、例外なく破壊されたことを理解できた。涙がでそうになった。

地元でもちを作っていた両親が津波で死亡された後に、その娘さんに「がんばってまた作れ」といってもできない。餅米を、餅つき道具を与えて、そしてお客を紹介して初めて一歩前にすすめる。希望をどうやってもってもらうかという話もあった。

広々とした土地をどう再生させるかはリーダシップをもった行政の青写真なしには不可能である。私たちは、日本人として、同じ人間として、東北の状況を自分の目で見たり、東北の産業の顧客になることでかれらの背中を少しは押せるかもしれない。

西宮に帰ってからテレビで放送されている東北番組に、訪問する前とまったく違った感情をもってみている自分に気がついた。  2012.12.29記