はしがき(第3版)

私が医者になってはや10年の歳月が流れた。当時、心臓の診断に初めて断層心エコー図法が登場し左房粘液腫の断層心エコー図をみて感動したのを思い出す。また急性心筋梗塞には心臓カテーテル検査は禁忌であり、なぜ慢性期は75%狭窄なのに心筋梗塞を起こしたのだろうと疑問に思った。その病態については、急性期に緊急冠状動脈造影がなされるようになり急性心筋梗塞のほとんどの例で責任血管が完全閉塞になっているという事実が判明してきた。

心腔の血液の流れの方向、速さはパルスドプラ法の登場で測定できるようになり、ドプラ断層エコー法(カラードプラ法)で視覚的にそれがとらえられるようになってきた。

10年前は禁忌とされたものが今ではルーチンとしてなされていることは多い。この10年間の進歩には目をみはるものがある。10年先は、いま循環器病学で常識とされていることがどれだけ変わっているか楽しみである。

現在は医療機器万能の時代のようであるが、新しい機器の登場は病歴聴取および理学的所見の大切さをなんら損なうものではない。むしろ、現在確立されている理学的所見が新しい方法を用いれば何を表しているかということを自分で勉強できる時代なのである。今後もまた新しい医療機器が導入されてくるだろう。新しく医者になった人たちはこれら機器にふりまわされないだけの循環器病学の能力をつけるよう努力してほしいと思うし、自分としては今後登場してくるだろう新しい方法論を受け入れ、従来いわれている循環器病学の知識に固執せず新しい発想をもっていきたいと思う。

 

昭和6310月 天理にて 伊賀幹二

はしがき(第5版)

現在の医者の役割はなんだろう。それは患者および患者の家族に病気に対する正確な情報を与えることだと思う。たとえば症状のない人が、成人病の危険因子を持っていたために冠状動脈造影を施行され3枝病変があったとしよう。患者は症状がないのにもかかわらず医者からはきわめて心臓が悪いといわれる。患者は以後、毎日をいつ起こすかもしれない心筋梗塞への不安を持ちながら生活していくかもしれない。たとえ統計医学的にみてバイパス手術したほうがよい結果が期待できても、患者自身がそのことについてよく納得せず心配ばかりするのなら、その患者にとって冠状動脈造影を施行したことはむしろ不幸である。冠状動脈造影をしなければこの患者は突然死をすることがあっても、少なくとも心筋梗塞に関して心配して生活することはなかっただろうから。「検査ではこんなことがわかります。」と説明し、その結果がどうであれ受け入れられる人には積極的に検査をすべきと思う。しかし、事実を知らされた時、狼狽し、受け入れられないと思われる人には検査はしないほうがよいのかもしれない。患者および家族に対する”納得の医療”が大切だと思う。検診がこれだけ発達し、症状のない時期での病気を拾いあげれるようになった現在、医者はもっと病気についての知識をもち、その病気の自然歴を知る必要がある。また新しい医療機器にふりまわされない最新の知識が必要である。さもなければ検診したためにかえって不幸になる人が多くなると思う。患者に中途半端に説明したために作られた医源病もけっこう多い。

近年の高齢者社会および核家族化で、人間は人生の集大成であるその最後を病院ですごすことが多くなりつつある。植物症になりたくない権利、ただ単に生かされているということを拒絶する権利、抗癌剤を拒否する権利が人々に与えられるべきである。私自身尊厳死を望みたいと思う今日このごろである。

平成2年5月奈良にて 著者

 

はしがき(第7版)

現代の日本では、救急医療という名のもとに家でほとんど寝たきりに近い超高齢者まで救急車で来院し、濃厚治療が行なわれている。また、老衰と思われる例でも入院し、様々な管が挿入され死ぬまで管理されている。

PTCAを多く施行している病院では、PTCAを施行後のfollowとして症状がなくとも3-5カ月ごとの冠状動脈造影を繰り返している。冠状動脈の動脈硬化をこれほど頻回にfollowし将来の心筋梗塞に備えることは、同じlevelの医療としては胃潰瘍の症例に3カ月ごとに胃カメラを繰り返すのと同じである。

私自身はこのような現在の日本の医療のあり方に抵抗を感じている。

さて、循環器病学”私の考え方”第7版は19936月現在私自身、循環器を標榜する内科臨床医として年々進歩または退歩する循環器病学においてどう対処、治療をしているか.また臨床でおきる疑問点にどういう発想を持って患者の観察を続けているかを書いたものである。6年前、初めは循環器内科へローテートしてくるレジデントに対して6カ月ごとに同じことを説明する必要性があったのと、また自分の考え方をまとめるために執筆しはじめたが第7版となった。

若い人たちに期待することは、循環器病学の考え方を主に患者から学ぶ一方、どこまで検査し、どこまで治療するのが患者にとって本当によいのかという自分自身の哲学を持てるように勉強してもらいたいと願う.

199369日 奈良にて伊賀幹二