弘田先生の思いで

私が大阪医大の6回生であった1977年、ポリクリで第3内科をまわっていたときが私と先生の最初の出会いでした。先生はアメリカでのレジデント研修終了後に帰国され3年目であり、我々学生を非常に精力的に教えられていました。先生は我々に講義形式ではない、いまでいう問題解決形式の講義をしてくれました。講義中には、必ず自分の考えとその根拠を述べさせられました。同じ年の9月、先生が当直の時、心臓手術前の心房中隔欠損症患者を一緒に見せていただきました。病歴、身体所見、心電図、胸部レ線を用いてどのように診断を下していくかを身をもって教わりました。患者の胸においた先生の聴診器のイヤーピースのみを私に渡され、「ここでS2にだけ注目しなさい」や、「ここで拡張期雑音にのみ注目しなさい」との先生のアドバイスにより、学生の私が診断に至ることができました。「診断は、権威のある教授がするものだ」と思っていた私は非常に大きな衝撃をうけました。当時、先生は卒後9年目でしたが、きちんとした知識を持っていれば、循環器疾患の多くの例では論理的に診断可能であることを私に教えてくれました。そして、アメリカのレジデント生活にあこがれるようになりました。何とかアメリカでレジデント教育を受けられないものかと、先生にお願いして卒業直後にミルオーキ、シカゴ、ボストンと3カ所をインタービューに行きましたが、当時は臨床ではいるのは無理との印象でした。

卒業後の進路を考えたとき、私は特別に循環器に興味があったというより先生に初期研修の2年間を教えていただきたいという思いが強く、鷹津先生の第3内科の研修医にさせていただきました。研修医時代では、弘田先生ほかアメリカから帰ったばかりの先生達が中心となり、すばらしい初期教育を受けることができました。毎日が新鮮で、日々知識が増えていくという満足感がありました。しかし、先生は常々、「2年で吸収できないものは何年いても吸収できない」といわれ、2年後は外の病院にでることを勧められました。研修医時代の2年間の思いでは多くありますが、特に医学的なことでは、血液ガスをとれば「なぜとったか?」、とらなければ「なぜとらなかったか?」という論点から我々研修医を指導していただき、このことは現在の私の医療態度にも大いに影響しています。

また、アメリカで培った臨床医のあるべき姿として“What are you going to do, if this patient is your mother? You should be a good teacher for medical students. But that is not enough. You have to think about what you can do for the tomorrow’s medical progress.”をよく言われました。そのころの先生は、上記の英語のごとく研究は必要だけれど、きちんと患者を診ることが第一義であり、学位制度が日本の卒後臨床教育を後退させた原因であると学位不要論を唱えられ、私たち研修医に本音で接していただきました。私も大いに共感し、いまだに学位のない生活をしております。初期研修後、私は内科すべてができるようになりたかったので天理よろづ相談所病院の内科ローテートコースに応募し、以後循環器内科で採用され今日に至っています。過去に、2度ほど河村先生から弘田先生をつうじて大阪医大に帰ってこないかと言われましたが、私は「弘田先生が昔にいったように、学位がない人間が臨床をきっちりしていることを世に示し、日本の卒後教育制度を変えたいんです」といって我を通させていただきました。これに関すれば先生は本音と建て前があったように思います。

現在、循環器疾患の診断と治療に加えて、研修医の教育に関与していますが、先生が私たちに教えられたようなことを目標としています。こころざし半ばで病魔により故人となられましたが、先生の意志をついだ私達世代の多くの医師は、その弟子を作り、必ずや将来の日本の臨床医学のレベル向上に貢献できるものと思います。

長い間どうもありがとうございました。

昭和53年度卒業 

現 天理よろづ相談所病院

循環器内科 伊賀幹二