高齢者介護・終末期医療と適切な医療費配分について

日本では、安心して老後を暮らせるでしょうか?親孝行な橋本元首相は、母親を国立病院へ7年間入院させることができましたが、一般人にとっては、高齢となった自分の両親が寝たきりになったとき、長期入院させることは不可能です.「寝たきりとなれば入院」とすべての国民が認識すれば、病院は本来の機能を消失します.家族の老化はどの家庭でも避けれないことであり、国民全員が自分の問題として考えなければなりません.核家族化し、サラリーマンが多く、狭い住宅事情の日本では、家族のみが介護の責任を負うことは不可能であると思います.家族の誰か一人が寝たきりになると、みなが結束することにより離ればなれであった家族が一つになる可能性もありますが、介護が長期間に及ぶと家庭崩壊になりかねません.自宅で介護ができなくなった高齢者にとって、適切な安住の場所はあるでしょうか? 現在の特別養護老人ホームの入所待ちが6か月から2年というのでは、実際には日本の高齢者福祉政策は機能していないということになります.その理由は、政治家の怠慢もありますが、一番は福祉に対する予算の少なさにあると思われます.

また、高齢者のみではなく家族の誰かが癌になり、転移により終末期になっても、2ヶ月以上の長期入院を許可すると病院の収入は減少し、いったん退院してもらわなければ病院経営がなりたたなくなります.我々の病院(1000床の高度専門病院)でも、癌の治療を受け、不幸にも転移のため終末期に達した患者に対し、患者の痛みが強く、患者家族の入院希望があってもできるだけ外来治療を行っています.患者にとっても、治療よりケアが必要な状態になっている時に、高度専門病院へ入院する意義はあるでしょうか?しかし、介護や長期ケアを必要とされる方を受け入れる病院では、現実には、儲け主義であることが多く、患者・家族がそれを知っているので行こうとしません.厚生省が機能別の病院制度を推進するといっても、現実には機能していない背景を知る必要があります.

心臓死、癌死、脳卒中死であれ、人間はいつかは死ぬものです.きわめて稀な人しか百才まで生きれません.死を人生の集大成であると考えれば、いくら若い時に幸福であっても、死の瞬間に幸福と思えなければ、その人の人生は不幸であるように思えます.高齢者や余命幾ばくもなくなった人は、本当に、病院で人生の最後を送りたいのでしょうか?ひとはどのような最後が望ましく、国としてどのような青写真をひいているのでしょうか?もちろん、国が決めることではなく、本人の死生観が一番尊重されるべきですが、実際にはあまりにも選択肢が少なすぎです.

私が勤務する循環器病棟では、疾患の特異性からも死亡前1週間の医療費が約200万円におよぶことがあります. 高価なバルーンを使った血管拡張療法をいくどとなく繰り返し、経皮的心肺補助装置を使い、多臓器不全で呼吸器管理のもとに集中治療室に何日もいたのちに死んでいく人もいます.助かる可能性が極めて少ないか、超高齢者か、もともと日常生活がかなり制限されている患者までに一律に“救急”という名のもとに濃厚治療が行われていることが多いと思います. 循環器疾患で運び込まれたすべての高齢者に200万円の医療が必要であったなら、すぐに、医療経済は破綻してしまいます.しかし、日本ではどんな状態であっても「最善をつくし頑張る」という医師が多くみられます.先がみえない患者に対しても単にやり始めたからといって、このような治療を続けて多くの医療費を費やしてよいのでしょうか.患者の家族に100分の1でも生存の可能性があると説明すれば蘇生を受けないという家族はいません.私は、高度専門病院であっても静かに死を看取る医療があってもよいと考えています.自分の家族の誰かが、救急で受診した病院の救命措置のためにねたきりや植物症になった経験を持ったほとんどの人は自然な死を望むように思います.先のみえない患者に対して高価なバルーンを使った血管拡張療法等を施行する予算を、不十分な福祉にまわせば、人生の最後をもっと楽しく安心して過ごせるのではと思います.そのために、我々医師は、患者個人に対して治療をすると同時に、日本全体を考えながら治療することと、及び自分自身の死生観を持つ必要があると思います.