死生観の必要性と内科医の役割

心臓死、癌死、脳卒中死であれ、人間はいつかは死ぬものである.きわめて稀な人しか百才まで生きれない.人間は古来、幸福を追求してきた.「幸福とは何だろう.」という命題については、いつの時代でも、高名な哲学者たちも考え、論じてきた.幸福の定義は個人の気持ちの持ち方と、人生観による.死を人生の集大成であると考えれば、いくら若い時に幸福であっても、死の瞬間に幸福と思えなければ、その人の人生は不幸であるように思える.

年を経るにつれ、その人の人生経験により死生観が形成されてくる.老年になると、「病煩わずして、突然に死ねたらどんなに幸せだろう.」「管をたくさんつけられ病院の集中室で死ぬより、慣れ親しんだ自分のベッドで家族にみとられて静かに死にたい.」「植物症のまま人の手を煩わせて長く生きたくない.」と考える人は多い.自分自身または、親については、このような終末像は好ましくないといっている医師自身が、実は患者にはそのような治療をしていることが多い.患者の家族に、「もうだめですから治療を止めましょう.」というには勇気がいる.予測された死であっても、病院では、臨終の際は家族がくるまでと、一種のセレモニーのような形として無駄な心肺蘇生をしていることが多い.

患者自身と患者の家族が了解していれば、家で死亡してもよいと思う.事実、私の患者でNYHA「度の心疾患を長年わずらい、機能回復が望めない症例は、ほとんどが家庭等での突然死である.病院へ入院し、多くの管をつけられ死亡する、または植物症になるということはほとんどなく、私自身、満足しているし、家族にも患者の死亡後に感謝されている.

医師は職業上、患者の死にいやおうなしに立ち向かわねばならない.癌の末期医療を経験すると、医師は患者の苦しみを取ることしかできなく、無力感をもたざるを得ないことを感じる.医師にとっては、疾患の診断、治療のみではなく、いかに家族を納得させ静かな死を迎えさせるかということも重要な役割である.

日常生活がかなり制限された高齢者の心筋梗塞患者に対する経皮的血管形成術(PTCA)ならびにそれにともなう集中治療、症状がほとんどない高齢者における各種検診、ポリープ切除術等では、治療により何を期待するかということは明確ではない.治療による合併症により、むしろ不幸な結果になってしまうことも十分にあり得る.

このように治癒の期待できない人、または瀕死の高齢者や無症状の超高齢者を治療する時、医師自身が学生時代からその人なりの死生観を持つことが必要となる.独身である20代、子供をもった30代、社会的地位を確保していく40代、同級生が毎年死んでいくことを実感する70代、それぞれの時代で死生観は変わっていくと思われるが、患者、その家族に治療の選択を説明するために、どうしても必要である.

自然科学では答えは一つである.しかし医療では答えは多数存在する.ある患者にとっては正解であっても別の患者では誤りであることもある.このような患者を前にして、処置に迷った時、私は「患者がもし私の家族であってもそうするか?」と考え、家族と相談し施行を決断している.時に自分の死生観、哲学を他の医師に強要する医師がみられるがこれは好ましくない.

内科専門医として我々は、広い内科医の知識が要求され、助かる病気を見逃さないことは大切であるが、同様に、死にいく人、高齢の人に対する自分自身の死生観を持つことは大切であると思う.