2016年の旅
(1)真田幸村めぐルート・九度山

NHK大河ドラマで人気の真田昌幸、幸村が隠棲した九度山。町石道の起点でもある丹正官符神社や慈尊院へは訪れたが、町の中をゆっくり見学することは、これまでなかった。今年は8月に訪れたあと、見残した処を再度、12月に見学した。
九度山駅はプラットフォームにも真田十勇士のイラストがあり、駅舎も六文銭の赤い旗で飾られていた。
「真田の道」と名付けられた商店街はどこも幸村一色  

問答石

子供の頃、槇尾山の弁財天を信仰していた弘法大師・空海は、高野山開山後も信仰厚く、月に九度は参詣していた。あるとき紀ノ川が増水して渡れなかったところ、弁財天が現れ、この地に勧請するように伝えたという。「紀伊続風土記」には、「弘法大師が槇尾明神と対面せし処」とある。

米金の金太郎 

大正初期に南紀宗平が東山に窯を築いて焼き上げた。高さ2mもあり、陶器製では世界でも珍しい巨像で、町の人たちに親しまれている。

九度山真田ミュージアムへ。真田親子の九度山時代をドラマ仕立ての映像で見た後、パネルや小道具の展示で当時を偲ぶ。
 上田時代、九度山時代、大阪の陣に展示のほか、九度山異聞、真田伝説、十勇士伝説、特別展示の大河ドラマ室と見どころ十分だった。
火縄銃は思ったよりも重量があった。
真田紐を作り、それを売って諸国の実情を探っていた。

松山常次郎記念館
九度山が生んだ政治家・松山常次郎氏の長女美知子さん(平山郁夫画伯夫人)が実家である松山家を改装して開館。常次郎氏に関する遺品や資料を展示、また平山郁夫画伯が描いた常次郎氏の絵も展示されている。

真田庵(善名称院)

昌幸・幸村が閑居した屋敷跡

六文銭の刻まれた門の前で

真田地主大権現

この寺に怒った姿の昌幸の霊がしばしば現れるので、大安和尚がそれを鎮めるために建てたと伝わる。左手に昌幸の墓がある。

雷封じの井戸
幸村がここに閑居中、落ちた雷をこの井戸に封じ込めたという。
   

真田宝物資料館

真田庵境内にある長屋門形式の資料館。幸村愛用の武具や書状、真田紐を作る器具(右下)など、数多くが展示されている。

 

左 :幸村愛用の穂先     右上:幸村自筆の書状    右下:昌幸手掘りの犬

真田庵南側の長屋門

天井には古い絵馬や梵鐘が残る。

仏師能光尊史跡

美作出身で後に九度山入郷に居住、高野山中門の仁王像など多数の仏像を残した。

慈尊院

弘法大師(空海)が高野山開創の際に、年貢の徴収などの庶務を司る高野政所や宿泊所を置いた高野山の要所である。弘法大師の母公が晩年移り住み、没後弥勒堂が建立されたことから、女人高野と呼ばれ親しまれてきた。

「弘法大師の案内犬の再来・生まれ変わり」と言われたゴン。町石道の20km強の道のりを朝、慈尊院を発って、夕方に高野山上の大門まで道案内し、夜には慈尊院に戻る毎日を送っていた。慈尊院の鐘の音が好きなことでこう呼ばれたという。

多宝塔

本尊・大日如来が置かれているため、大日塔とも呼ばれる。弘法大師の創立。現在の塔は寛永年間(1624〜1643)に再建された。

丹生官省符神社へは119段の石段を登る。

丹生官省符神社

空海が高野政所創建のとき、守り神として地元に所縁の丹生都比売・高野御子の二神を祀った神社。

真田古墳

「大坂城に続いていて、かつて真田幸村はこの抜け穴を使って戦場へ出向いた。」という伝説が残っている。 実際は、古墳時代後期(4世紀頃)の古墳

旧・萱野家(大石順教尼記念館) 

江戸時代中期に高野山眞蔵院の里坊(不動院)として建院され、明治時代まで続いた由緒ある建物。何度も訪れた大石順教尼の遺墨作品などが保存されている。


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