大阪市内の真田幸村関連の史跡のうち、大坂冬の陣で最大の激戦地となった真田丸周辺から大阪城へ歩いた。 | |
JR玉造駅から「幸村ロード」の名がついた商店街を抜けて最初の目的地・ |
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三光神社は反正天皇時代の創建と伝えられる。創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し、現在は86代目になる。 |
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真田の抜け穴 「この地はもと大阪城の出城(偃月城)在りし処にして慶長・元和の大坂合戦の頃、真田幸村茲に陣し、本城より此処に至るまで地下に暗道を設け今尚其のこん跡を本殿階下に止るより世俗に真田山の三光と称するにいたれり」(三光神社由緒略記) |
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勝ち鬨を挙げる幸村の銅像 黒田屏風に描かれた真田信繁を元にしたといわれる。 |
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善福寺(どんどろ大師) 真田丸のあった近くにある。1752年、高野山岩本元院の法資法道が大坂夏の陣の戦死者を弔うために鏡如庵大師堂と称し創建した。 |
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浄瑠璃「傾城阿波鳴門」のお弓とお鶴の母子が門前で再会した舞台とされ、その銅像がある。 |
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心眼寺 真田幸村と大助の供養のために真田家の祖先である滋野氏が江戸時代に建てた寺。周辺は大坂冬の陣で真田幸村が築いた大坂城の出丸・真田丸跡地といわれる。三光神社が真田丸の東側に位置し、心眼寺は西側にあたる。 |
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冬の陣から400年目にあたる2014年、信繁四百回忌に建立された。文禄3年(1594)11月2日、信繁(幸村)は従五位下・左衛門佐に任じられ、このときの口宣案に「豊臣信繁 叙従五位下左衛門佐」と記されているという(柳原家記録) |
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まんなおし地蔵尊 まんの悪い時に祈願すると、不運を直して幸運に変えるよう、ご利益を授けて下さるという。 |
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興徳寺 心眼寺の南隣に続く高野山真言宗の寺。天平年間の行基により創建された。 |
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准提観音 高さ10m.子授けと安産の観音様 |
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真田丸顕彰碑 大坂の陣の激戦地だった心眼寺の向かい側、大阪明星学園運動場横にある。足元に豊臣家と真田家の家紋、前面に冬の陣図などの陶板を埋め込んでいる。 |
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円珠庵鎌八幡 大坂冬の陣の時、幸村が境内の榎の木に鎌を打ち込んで必勝を祈願したと伝えられる。今は悪縁を絶つ祈祷寺として知られる。
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玉造稲荷神社 垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられる。別称は豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬された。 |
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豊臣秀頼公銅像 -- 平成23年(2011)10月13日に建立・除幕式 |
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豊臣家奉納鳥居 慶長8年、豊臣秀頼により社殿再建時に奉納された石鳥居。阪神・淡路大震災により基礎に損傷を受け、現在は上部・脚部に分け、境内に置かれている。 |
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越中井 細川越中守忠興屋敷の台所跡に残る井戸。ガラシャは人質になることを拒み、石田三成の軍勢に囲まれ、ここで最期を迎えた。石碑正面表題の文字は徳富蘇峰の筆 |
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大阪城天守閣 エレベータを待つ長い行列に並んで、久しぶりに展望台に登った。エレベータは5階までで、8階にある展望台までは階段を上る。 |
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下りはすべて階段で、各回の展示を見ながら降りる。 パノラマヴィジョン「奮戦する真田幸村」 |
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天守閣につけられている伏虎の原寸大レプリカ | |
天守閣展望台よりの眺め |
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上:東方 下:北方
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豊国神社を参拝し、真っ青な空を背に立つ天守閣に見送られて森ノ宮へ歩いた。 |
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