2006年の山旅 (9月~12月) |
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富 士 山 【登 山 日】2006年9月3 日(日) 【メンバー】千日山歩渉会 13名 【コースタイム】 新六合目宝永山荘05:00…新七合05:47…七合06:30…八合07:07~07:35(朝食)…九合08:07~08:20…九合五勺08:50~09:03…富士宮山頂浅間神社09:43~10:13…剣ヶ峰10:25~10:55…昼食11:10~11:35…須走口頂上11:50…御殿場口頂上12:20~12:45(コ-ヒ-タイム)…八合13:30…七合五勺13:50~14:00…七合14:10…宝永山への分岐15:05…宝永山15:12~15:25…宝永火口15:55~16:00…宝永山荘16:25 ![]() お鉢巡りを終えて、御殿場道を下る。七合五勺辺りから次第に雲の中に入り、七合目では視界が殆ど閉ざされてしまった。2年前と変わらない状況である。六合目からジグザグに右に下ると砂走りに出た。霧が切れると宝永山に向かう道が見えたので、ザレた斜面を右に横切って行く。標高差100mほど下り過ぎていた。ざくざくの斜面を10分ほどアルバイトして宝永山のコルに登る。雲が切れて山頂部が大きく姿を現した。あんな高いところにいたとは信じられないくらいだ。再び濃い霧が辺りを包んだので、山頂を後にして、名物の富士宮ヤキソバと生ビールが待つ宝永山荘に急いだ。 |
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城 山 城山という名の山は、名阪国道近く(別名・椿尾塁)、大和高原の馬場、白石、吐山、室生の竜口などにもある。いずれも山城が築かれていたことから付いた山名と思われる。今日登る山は櫻井市と宇陀市榛原区の境にあり、長谷寺から正面に大きく見える525.5mの山で、2万5千図には山名も山頂への道も記されていない。別名・岳山 【登 山 日】2006年9月21 日(木) 【コースタイム】笠間09:53…陽明門院笠間山稜10:05…送電線鉄塔10:20…NHKTV宇陀中継所10:40…三角点10:50…稜線上の分岐11:03…笠間11:25 山陵右手の草深い道を北へ、ヒノキ、スギの植林の中の急坂を15分ほど登る。鉄塔の下に出て踏み跡が左から延びてきていた。さらに20分登るとNHK宇陀中継所のTV塔のある平坦地に出る。東西に延びる稜線上のT字路になっている。、宇陀松山の出城のあった場所だろうか?ここから西へ100m程、深いクマザサを漕いでいくと、草の茂みに隠れた山名板と三角点があった。分岐に帰り稜線の道を直進。イノシシの足跡や掘り返した痕が多く、最初は安田から登ってくる道と出会う「長者屋敷」跡まで行くつもりだったが、小さなピークを過ぎた峠状の十字路で右に下る。最初しっかりしていた道は倒木が重なる溝状の廃道になり、植林帯に逃げたりしているうちにイノシシ除けのトタン板が並ぶ山間の畑地にでた。スタートからゴールまで腰を下ろすことはおろか、水も飲まずに歩き続けていた。 |
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栃 原 山 【登 山 日】2006年9月2 日(木) 榛原の岳山を下るとまだ昼前で、次に吉野へ移動する。栃原岳は吉野町栃原にあり、標高531m。下市から登っていくと山頂に大きな鉄塔が立つ山が近づき、前に櫃ヶ岳、栃ヶ山に登ったとき見覚えのある「一の鳥居」の前に出た。車道が鳥居を潜って続いているので、そのまま少し上までと車を進めるうちに、NHK栃原中継所の建物と二本の高い鉄塔、見晴台などのある広場に着く。石段を登ると、すぐ波比賣神社の境内で、結局、歩かずに山頂まで来てしまった。三角点を探して境内や裏手の広場も歩くが見付からない。おそらく葛木神社のように神域周辺にあるのだろうが、あえて深入りはしない。展望台から大淀や五條の市街地、金剛・葛城の山並みを眺めて、「金の嶽」をあとにした。 |
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栃 尾 山 天川坪内から栃尾辻、頂仙岳、狼平を経て弥山に登る道の途中、栃尾辻から西に派生する尾根上の1256.9m峰。(2万5千図には山名記載なし) 【登 山 日】 2006年9月24 日(日) 晴 【コースタイム】 天河神社08:45…登山口09:07…小台地10:30~10:35…栃尾辻11:08…栃尾山11:25~11:30…大原11:50…大平辻12:08…(途中昼食15分)…登山口13:30 ![]() 山頂から北西に向いて張られたネットの横に細い踏み跡がある。灌木に覆われていたのを新しく切り開いて整備中の様子で、赤ペンキを先端に塗った木の棒が所々にあって心強く思った。20分ほど下ると、前の「立入禁止」の札があったネットの扉の前にでた。現在使われている栃尾辻(そして弥山)へのルートは、推測ではあるが地図の点線路の下を等高線に沿って進み、そのあと栃尾辻手前のコル状の地点に登っているようだ(GPSのトラックは林の中、稜線の陰の弱受信で残っていない)。帰ってからネットで見ると、他にも何人かがこの辺りで戸惑っている。 |
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マナスル三山展望トレッキング ![]() … 全文はこちらに なおマナスル三山とは、マナスル(8,163m)とその南に位置するP29(7,871m)、ヒマルチュリ(7,893m)を指し、いずれも日本隊が初登頂を果たした山である。 【登 山 日】 2006年9月30 日(土)~10月8日(月) 【メンバー】 日本山岳会関西支部 |
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綿 向 山 標高1110m。近江平野に水をもたらす日野川源流にあり、古くから近在の人々に崇敬されてきた近江4霊山の一。 【登 山 日】 2006年10月15日(月) 【メンバー】 千日山歩渉会 13名 ![]() 帰りは水無山北尾根を下る。「文三のハゲ」を横に見る鞍部まで下りて、急坂を水無山(995m)に登る。灌木に囲まれた狭い頂上である。少し先に展望の良いところがあり、東峰との間は深いキレットになっていた。ここから鞍部まで引き返す。北尾根の道は崩壊した箇所や狭い足場のトラバースが多く、のんびり歩ける表参道の登りとは一転して、少し緊張させられる、それだけに山歩きの味わい深い道である。おまけに予想通りヤマビルまでが顔を見せた。登りとほぼ同じ二時間でヒミズ谷出合の登山口に着き、整理体操をして御幸橋駐車場の車に帰った。 |
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玉置山~宝冠ノ森~蛇崩山~笠捨山 宝冠ノ森は一時、南奥駈道最後の行所と言われていた。これは江戸後期に入って逆峰が一般的となり、玉置山から本宮までを歩かずに玉置山から竹筒に出て、北山川を舟で新宮に下ることが多くなったためである(森澤義信氏「大峰奥駈道七十五靡」)。また上掲書によれば笠捨山から古屋宿間の稜線上の現在の奥駈道も江戸時代には使われず、笠捨山から熊谷ノ頭を経て上葛川に下り、ここから古屋宿に登り返していた。今回の例会ではこの奥駈道最南部の行所を訪ね、上葛川から「江戸道」を辿ることになる。 【登 山 日】2006年11月3日(祝)~4日(土) 【メンバー】日本山岳会関西支部 (一般参加を含め19名) 【コースタイム】 3日 餓え坂入口11:50…玉置山(昼食)12:10~12:45…展望台13:05~13:15…宝冠ノ森14:00~14:10…玉置神社15:15~15:35…玉置神社駐車場16:00 ![]() 4日 上葛川06:30…明日平(尾根に出たところ)07:35~07:45…作業小屋後08:25…熊谷ノ頭08:50~09:00…蛇崩山09:25~09:40…熊谷ノ頭10:00~10:07…笠捨山東峰11:00~11:35…笠捨本峰11:45~11:53…葛川辻12:15~12:25…地蔵岳分岐13:05~13:15…上葛川14:47 ![]() 電波反射板が立つ広い頂で素晴らしい展望が拡がっている。孔雀岳、釈迦ヶ岳、行仙岳…と奥駈道が通る山々がずらりと居並んで出迎えてくれた。笠捨山本峰(1352m)は少し先にある。去年5月、ここに着いたのは激しい雨が降りしきる中だったが、今日はこの青空。みんなの顔も晴れやかだ。想い出の奥駈道を葛川辻まで辿り、そこから下山にかかる。急な下りではないが、桟道、崩れた沢のトラバースなどを何度となく繰り返し、15時前にバスの待つ上葛川に下った。 |
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学能堂山 奈良県御杖村、三峰山から北に延びる支稜上にある楽能堂とも岳の洞とも書かれる1022m、二等三角点の山。山頂部は草原で展望に優れる。 【登 山 日】2006年12月18 日(月) 【メンバー】千日山歩渉会 11名 【コースタイム】 駐車場所(みむね山観光案内所の先)10:10…林道終点10:40~10:45… 小須磨山11:25~11:30… 小須磨峠11:37…白土山12:01…東俣山12:13…学能堂山12:37~12:45… 佐田峠分岐12:58(昼食)13:30…小須磨峠14:08~14:13…小須磨峠登り口14:40…14:50 駐車場所 ![]() |
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