2010年の山旅 


二 上 山

長い間苦しんだヒザの痛みも、なんとか和らいできたので恐る恐る出かける。矢田丘稜以外の山歩きは、実に昨年の8月7日の「四阿山〜根子岳」以来になる。 

登山日】 2010年5月12日 
【コースタイム】當麻山口神社 08:50…祐泉寺09:05…馬ノ背09:45〜09:50…雌岳09:55〜10:10…岩屋峠10:25…祐泉寺10:40…山口神社10:55


当麻山口神社*
に車を置かせて貰い、お参りを済ませてスタート。大池の畔から釣り池の横を通り川沿いに登っていくと、早くも山を下りてくる人たちに次々出会い挨拶を交わす。祐泉寺の山門をくぐって馬ノ背に登る右の道をとる。次第に流れは細くなり、鳴き交わすカジカの声が聞こえてくる。階段道や鉄梯子などで整備された道が、美しい新緑の中に続く。最後の急登を終えて馬ノ背に出て、ベンチに座って一休みする。
 いつもはピストンする雄岳を今日は大事を取って敬遠。そのまま雌岳に登る。山頂広場の日時計はくっきりと影を落として時間を教えてくれているが、雄岳の方の空は真っ黒な雲に覆われていた。それにしても、この雌岳頂上に誰ひとり他の人がいないのは珍しいことだ。まだまだ昼には早いので、コーヒーだけ飲んで下ることにする。

 元祐泉寺跡への道を探して林の中の踏み跡を下ってみたが、いつの間にか歩き慣れた道に出てしまった。ここから見た葛城山も頭の上に黒い雲が覆いかぶさるようだ。岩屋峠から今日は欲張らず、このまま祐泉寺に下る。祐泉寺山門まで膝を庇いながらの下りだったが、いつもと変わらないペースで下れて、やれやれ一安心。

 
美しいベニウツギが咲く大池の畔を通り、山口神社に帰る。無事山歩きを終えたお礼のお参りをして、当初から予定していた当麻寺へ歩く。北門から境内に入る頃からまた晴れてきて、二上山が真昼の陽を浴びて美しく輝いていた。
 *延喜式神名帳に式内官社であることが記されている由緒ある神社で、祭神はアマツヒコヒコホニニギノミコト、コノハナサクヤヒメノミコト、オオヤマツミノミコトの三神。摂社・当麻都比古神社の祭神・麻呂古皇子は用明天皇の皇子で聖徳太子の異母弟、当麻寺を創建したこの地の豪族・当麻氏の祖先とされている。


金 剛 山

【登山日】 2010年5月21日 
【コースタイム】高天彦神社10:15…イワゴの谷分岐10:55〜11:05…ダイアモンドトレールに出る12:05…仁王杉12:25…山頂葛木神社12:35…国見城址12:50〜13:15…高天彦神社15:05


「ヤマトグサが咲いているか見に行こう」と急に金剛山へ。今日は高天(たかま)道を登る。昭和10年から終戦までの10年間、御所の方から山頂の社務所などへ郵便物が運ばれた道で、郵便道とも呼ばれている。天孫降臨伝説のある高天にある
*高天彦神社*下の駐車場に車を置いて、登山の安全をお祈りしてスタート。流れの左岸沿いに行くと7mほどの高天滝がある。休憩所横から木橋を渡り山道が始まる。気温が高く、半袖姿で歩いているのに額から汗が滴り落ちる。ヒノキ林の中に丸太の階段が続きく。やや勾配が弱まったところに木のベンチがあり、イワゴノ谷への道を分ける。マツバカケと呼ばれる分岐である。ベンチに腰をかけて一息入れ、汗を拭う。しばらく山腹を左に捲くように平坦な道を行き、道が崩れてマダラロープが張られた所を過ぎると、急な木の階段がある。木の間から見える右手の白雲岳(王山)が、次第に近づいてくる。最後は嫌というほど長い急な階段道が続き、息を整えながら登り切るとダイヤモンドトレールに飛び出した。去年、葛城山から水越峠に降りて登り返してきた懐かしい道である。平坦な道を500m進むと一ノ鳥居。湧出岳、ロープウェイ方面からの道を合わせて、今まで数えるほどしか出会わなかった登山者の数が急に多くなる。
 急な坂道を登っていくと仁王杉との間で、期待どおりにヤマトグサが咲いていた。思いのほかの数の多さだが、残念ながらまだ背丈が低く花も小さかった。仁王杉の前から裏参道のブナ林に入ると葛城山の南面が見える。去年に比べるとツツジの赤い色が薄く、数も少ないようだ。山頂の葛木神社の前にボタンザクラが美しく咲いていた。参拝をすませて転法輪寺へ下る。行者堂と十三重塔の間には一面にニリンソウが群れ咲いていた。国見城址からの展望は、あいにくの黄砂の影響で全くなかった。北尾根への下る道が大きく崩壊して通行出来なくなっていた。ボタンザクラの下で弁当を食べて元の郵便道を下る。久しぶりに充実した山歩きを味わえて満足の一日だった。

*高天彦神社  御祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
由 緒 天照大神の子の天忍穂耳尊(あまのおしほのみみのみこと)に本社の御祭神の娘、栲幡千々姫(たくはたちじひめ)が嫁ぎ、御子の瓊々杵尊(ににぎのみこと)が高天原から降臨される。その神話に言う高天原がこの台地である。御祭神を祖神とした葛城族は、大和朝廷に潜行する葛城王朝を築き、亡びた後も平群・巨勢・蘇我の豪族として栄えた。延喜の制では、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗には、官幣に預かってきた神社である。(神社の説明板による)


観 音 峰

【かんのんみね】観音峰は吉野郡天川村にある大峰山脈の前衛峰で、標高1347.4m。南北朝時代、後村上天皇が吉野から天川に落ち延びたとき、山中の洞窟に籠もった夜の夢に十一面観音菩薩が現れ、河合寺が安住の場所とのお告げを受けた。山名はこの伝説に由来している。

【登 山 日】 2010年6月1日
【コースタイム】登山口10:05…観音水10:20…観音平休憩所11:00〜11:10…観音平展望所11:35〜11:45…観音峰12:20〜12:35…観音平展望所13:08…観音平休憩所13:30〜13:35…登山口14:15


予報は「上空に寒気が入り不安定な天気」と伝えている。天川河合から洞川へ向かい、虻トンネルを抜けた駐車場に車を置く。
 吊橋を渡ると観音峰への道が始まる。植林の中を少し登ると右へ御手洗渓谷への道を分け、右に折れて
観音水に着く。カジカが鳴く沢を二度鉄の橋で渡り、木の階段道やなだらかな道を繰り返して尾根にでる。ブナ林の中、苔むした岩が多く見えるようになると立派な休憩小屋のある観音平休憩所に着く。広場にはヒトリシズカの花が咲いていた。一休みして正面の階段を登り、大きな岩の間を通っていく。この近くに吉野の合戦に敗れて観音岩屋に隠れた大塔宮護良親王が詠んだ「よしの山花も散るらん天の川 くものつつみをくずすしらなみ」の歌を刻んだ「お歌石」があったという。しばらく山腹の道を緩やかに登る。このあたりは石灰岩の大きな岩が点在している。やがて植林帯の中、土止めの木組みが何度もジグザグを繰り返して続く急坂の登りになる。登り切ると観音峰展望台。標高1208m地点の周囲をススキに囲まれた丸い丘で、晴れていれば遮るもののない大展望が拡がるのだが、今日は残念ながら稲村ヶ岳から弥山にかけては雲に覆われて、右手の天和山だけに陽が当たっていた。正面に1285m峰が見え、観音峰はその右に顔を覗かせている。しばらく展望台の回りを探したが花の姿はなく、三角点まで行くことにする。
 ススキの原を抜け雑木林に入る。咲き残ったヤマツツジの赤が彩りを添えている。急坂を登り切ると1285mのピーク。木材運搬用のワイヤや錆びた器具が残されていて、ところどころでギンリョウソウが顔を出していた。いったんゆるく下り、コルから登り返す。新緑の美しいブナ林の中を登っていく。尾根の幅が広くなり、踏み跡が錯綜するがテープが導いてくれる。静かな林の中の観音峰頂上に着くと、汗が冷えて寒さを感じるほどの気温だ。頭上の空が暗くなってきたので、急いで軽い昼食を済ませて下山する。ときどきパラパラと雨滴が落ちてくる
。展望台を通過するころ雲が切れてバリゴヤノ頭が見えた。右手遠くに天和山。休憩所に降りる頃には音を立てるほどの雨になった。しばらくすると雨雲は過ぎたので、いったん出した雨具をザックにしまって帰りを急ぐ。観音水で水割り用のお水を頂いていると、山岳雑誌のグラビアから抜け出したような、最新のファッションに身を固めた若い男性が追い越して行った。今日、山で出会ったのはこの人ただ一人だった。なんとか雨に遭わずに駐車場所に帰る。一年ぶりの観音峰は展望や花には恵まれなかったが、元気に歩き通せただけで十分満足だった。

葛 城 山

【登 山 日】 2010年6月3日
【コースタイム】水分橋10:15…中間ベンチ11:00〜11:10…山頂12:05〜ツツジ園12:40…中間ベンチ13:15〜13:20…水分橋14:00

JAC時代の山仲間の「ひろせ」さんと大和葛城山に登る。同じならツツジの咲く時期にと思っていたが、彼の都合がなかなかつかず、そのうちに6月になってしまった。もうツツジの時期は過ぎて、予報は今日は夏の暑さになると伝えている。一昨日の観音峰から一日空けただけなので、ヒザの負担も考えて歩きなれた天狗谷道(青崩道)を登ることにした。
 車の助手席に迎えて山麓道を走る。顔を合わせるのは一昨年のカムチャッカ・アバチャ山以来だが、いつもBLOGにコメントをくれたり、メールや電話で話しているので、それほど久しぶりという感じがしない。水越トンネルを大阪側に抜けたいつもの駐車場所にくると、道脇にずらっと車が停まっている。平日では始めて見る光景である。青崩集落上部の民家横のカンカン照りの坂道を登り、植林帯の日陰に入るとひんやりした山気に触れてほっとする。いつも何かの花を見る沢を渡る地点でも、この時期には青草が生い茂るだけで、坦々と登るほかない。鎖場の近くでイワタバコを探したが、まだまだ早いようだ。水場の冷たい水で喉をうるおし、中間ベンチで一休み。ホトトギスがしきりに鳴き交わしている。
 少し斜面を登ると、すぐに土止めの木の階段道になる。前よりも歩き難くなったが、登山者の安全もさることながら自然保護のために止むを得ないのだろう。登りきって水平道に変わる植林帯では尾根をまたぐようにワイヤが張られ、伐採作業が進んでいた。右手が大きく開けて金剛山の南面がよく見えるようになった。作業中の人に声をかけて通らせて貰う。大きく左に曲がるように山腹をまいていく。T字路の左、以前の河内の弘川寺に行く道は林道に変わり通行禁止になっている。右へ葛城山を示す道標の下に、ショウジョウバカマが大きく背を伸ばしていた。ここから右手の沢に沿いショウジョウバカマの群生地を抜けていく。キャンプ場が近くなる頃、左の斜面にツツジの紅い色が見え、この調子では、ひょっとするとツツジ園のツツジもまだ咲き残っているかも知れないと、淡い期待が湧く。
 キャンプ場を過ぎ、ロープウェイからの道を合わせると急に人が増える。白樺食堂手前から低い草原の斜面を直登して山頂へ登る。思いの外に人影は少なかった。晴れてはいるが薄雲がかかり、遠くの山波が霞んでいるのが残念。少し移動して高原ロッジを見下ろすベンチに腰を下し、金剛山を見ながら昼食をすませる。ツツジ園に回ってみたが、残念ながらもう花の時期は過ぎて枯れた後の色はまるで紅葉のようだった。葛城高原ロッジ裏のシャクナゲに見送られて、元の道を帰る。天狗谷道は本当に静かで、カッコウの声だけがずっと一緒に付いてきた。中間点のベンチに座ると涼しい風が吹き抜け爽快だ。水場で顔を洗って、日差しが強くなった駐車場所に帰る。大和高田で「ひろせさん」とお別れして家に着くや、雷を伴う激しい夕立になった。久しぶりに懐かしい山友と語らいながらの楽しい山歩きだった。

大 台 ケ 原

【登 山 日】 2010年7月27日
【コースタイム】 駐車場09:25…日出ヶ岳10:15〜10:30…正木ヶ岳10:45…正木ヶ原11:00〜11:05…シオカラ分岐11:45…大蛇ー12:00〜12:05…昼食12:10〜12:45…尾鷲辻13:10〜13:20…駐車場13:50

下界の暑さを逃れて大台ケ原に行く。家を出てから3時間近く、大台ケ原駐車場に着くとさすがに標高1570mの空気はひんやりと爽やかで、暑さに弱った身体をたちまち活気づけてくれる。いつもよりも車の数が少なく、がらんとした寂しい感じの駐車場をスタート。濃淡いろいろな色合いの緑に染まりそうな水平道を歩き、整備された階段道を日出ヶ岳へ登る。山頂休憩所の屋上展望台に登るが、今日は夏雲に覆われて、右手の熊野灘さえ見えない。先ほど追いついたバスツァーの30人グループが出た後は、二人だけの貸し切り状態になった。霞んでいた大峰の山々も次第に姿を現して来た。15分ほど休んで出発。
 木道が続く正木ヶ峰を登り終えて、トウヒの白骨林を見ながら下る。正木ヶ原にくると、急に目の前をシカの大群が横切った。およそ30匹はいただろうか。頭数の多かった昔でも一度にこれほどの数を見たことはない。とくに近頃は、東大台でシカを見ることが珍しくなっただけに、嬉しい出来事だった。少し先で休んでいた30人グループが、出発準備をしていたので混まないうちに大蛇ーに急ぐ。滑りやすい岩の先端に立つ。東ノ川を隔てて大峰の連山が一列に並んでいる。右手には西大台の樹林帯に、中ノ滝が白布をかけている。目の前は蒸篭ー(セイログラ)の絶壁。狭い岩場にガイドを先頭にして大グループがやって来たので、場所を譲って引き返す。
 ちょっと戻った岩場が、私たちがいつも昼食場所にしているところ。ご丁寧に「この場所は大蛇ーではありません。もう少し下った先端に鎖がある岩場が大蛇ーです」という新しい札が取り付けられていた。木陰でサンドウィッチを作り、昼食を済ませる。
いつもは、ここからシオカラ谷に下り、吊橋を渡って登り返して帰るのだが、しばらく動かしていないヒザが不安なので、今日は尾鷲ノ辻に引き返す。
 休憩所に、初めて腰をおろしてみた。あとは何十年ぶりかで歩く水平道を2キロ、のんびりと駐車場へ帰った。久しぶりの山歩きなのに膝サポーターを忘れ、いつ痛みだすか心配もあったが、帰ってからも異常なく、かえって調子が良くなったほど。天気予報が伝えていた午後の雷雨にも会わず、静かな大台の雰囲気に浸れて満足の一日だった。

竜 王 山

【登 山 日】 2010年10月19日
【コースタイム】 長岳寺10:05…不動石仏10:50…田龍王社11:27…頂上(南城跡)11:40〜12:05…竜王山古墳群13:00…山辺の道へ出る13:30〜13:40…長岳寺13:50

長岳寺の駐車場に車を置かせてもらい、山門をくぐる。参道途中から左に折れて柿畑の中を登ると、目の下に大和平野ののどかな風景が拡がってくるのだが、今日は曇り空でまったく展望がない。切り通しのようなところから山道が始まる。急坂や緩やかな登りの道を45分ほど登ると、不動明王を刻んだ石仏がある。ここを、ほぼ山頂までの中間地点の目安にしているが、以前よりはお不動さんが、だんだん上へ移られるような気がする。それでも時計を見るとガイドブックの標準時間と同じくらいだった。ここからは少し緩やかな登りになり、やがて長岳寺奥の院への道を右に分ける。やや長い階段道が続き、天理ダムからくる車道に飛び出した。大きくカーブするところで車道と別れ、ちょっと長い階段を上がると南城跡の最高点に着く。この山は奈良盆地と大和高原を扼する要衝にあり、天文年間に土地の豪族・十市遠忠が山城を築いたが、永禄11年(1568)、松永久秀に攻められ落城した。その南城跡にある三角点付近は公園風に整備されている。 
  晴れていれば大和平野を見下ろし金剛、葛城、生駒の山並みを望めるのだが、今日は一面にぼんやりと霞み、僅かに葛城や二上山の在り処が分る程度だった。先にいた5人の方と同じように、ベンチでお弁当を食べた。じっとしていると汗が引いて寒いくらいなので、食事を済ませて早々に下山する。帰りは山頂下の階段道途中で左の林の中へ折れて「柳本竜王社」にでる。昨年来、整備されたようで新しい社殿に変わっていた。いったん車道に出て、すぐ竜王山古墳群を通る道に入る。何度も降りた道で荒れているのは承知していたが、なんと初めから急な階段道の連続に変わっている。急な階段とガラガラの岩石道を1時間近く頑張って「竜王山古墳群」の標識のあるところにでる。ここにはな円墳や、横穴墳がそれぞれ300基、杉林の中に埋もれている。ここからは道は嘘のように歩きやすくなった。
 細い流れに沿うようになり、その流れが次第に広くなって新しい砂防堤防などが造られている。振り返ると双耳峰の巻向山が見え、やがて「山の辺の道」に出た。ここまでの帰りの山道ではだれにも出会わず淋しいほどだったが、ここにくると何人ものハイカーが、北から南から行き来している。右手前方に櫛山古墳、左に崇神天皇陵のお濠が見え、ちいさな公園風になっている。前に作者不詳の歌碑があった。「玉かぎる夕さり来ればさつ人の弓月が岳に霞たなびく」。この「弓月が嶽」は竜王山の南にある「巻向山」に比定されている。
 竜王山は、万葉歌で柿本人麻呂が詠んだ、「衾道(ふすまじ)を 引手(ひきで)の山に 妹(いも)を置きて 山路をいけば 生けりともなし」の「引手の山」のことで、この歌碑(犬養養 書)は長岳寺の北東400mのところにある。コーヒーを飲んでしばらく休み、古墳の前の池(泥池)と御陵の間の「山の辺の道」を北へ長岳寺に帰る。いつも通り、あまり休憩せずに、ゆっくりノンビリ山を楽しんで歩いた半日だった。

倶留尊山

【登 山 日】 2010年11月10日
【コースタイム】
 曽爾高原駐車場10:05…二本ボソ11:10〜11:15…倶留尊山11:45〜12:15…亀山13:40…お亀池13:55
1110 倶留尊山 


8時過ぎに家を出る。名阪国道を針ICで降り、榛原から国道369号線(伊勢本街道)を東へ。栂坂峠に近付く頃は暗い空からポツポツと雨滴が落ちていたが、トンネルを三つ抜けると空が明るくなってきた。掛で伊勢本街道と分れ、県道を北へ入る。雲が切れて青空がのぞき、嶽見橋から仰ぐ鎧岳に陽が射し始めた。岩肌に纏う黄葉や紅葉が鎧の「おどし」のように鮮やかに輝いている。 太郎路で曽爾川を渡り、曽爾高原へ登る。駐車場で車を降りると気温の低さに驚いた。風があり体感温度はかなり寒く感じたので、珍しくヤッケを着て歩きだす。お亀池の周囲には柵が巡らされ、灯篭がずらりと並んでいる。10月中旬までライトアップされていたそうだが、さぞ幻想的な光景だったことだろう。正面に見える稜線を目指してゆっくり登って行く。稜線に出たところが亀山峠である。東側に下ると三重県側で美杉村上太郎生に出る。西側を振り返ると、眼下にお亀池が見え、その向こうに連なる曽爾火山群の山々は左から住塚山、国見山、兜岳、ちょうど正面が鎧岳になる。一息入れて稜線を北へ向かう。背後に見えるのは後古光山と古光山。吹きさらしの稜線から樹林帯に入るとホッとする。この先に、入山料(一人500円)を徴収する関所があり、そこを過ぎると見事な展望の開ける二本ボソ(996m)の岩峰である。素晴らしい天気になった。キレットを隔てて目指す倶留尊山を望む。右の形のいい山は、伊賀富士・尼ヶ岳。その右に大洞山。東側には伊勢の局ヶ岳や高見山の鋭鋒も見えた。
 ロープの張ってある急な岩場や、滑りやすい急坂をいったんキレットへ下る。最低鞍部(916m)近く、足元は色とりどりの美しい落ち葉で埋め尽くされている。再び急坂を登って、最後は何か由緒ありげな石垣の跡のような処を回り込むようにして頂上の台地に出る。三角点(1037.6m)の周囲には日本三百名山の標識や山名板があり、広場を囲むようにいくつかのベンチが置いてある。山頂には4グループ十数人が思い思いに食事中だった。私たちもなるべく風を避けて美しい紅葉の下でお弁当を拡げた。
 二本ボソの小屋で入山券の半券を渡し(登山カードの役割もしているらしい)、亀山峠が近くなると、サイレンの音が聞こえて驚いた。見下ろすと池の畔に赤い消防車や白い救急車が停まっている。あとで駐車場のお爺さんに聞くと怪我人があったそうだ。先日はヘリが来たこともあったそうで、「大げさなことじゃ」と笑っていた。少し南の亀山(849m)経由でお亀池へ下ることにした。午後になっても風は止むどころか、ますます強くなり、亀山頂上では吹き飛ばされそうな程だった。恐らく風速15〜20mはあったと思う。頂上を過ぎて階段に手摺のあるところでは、それにすがるようにして下った。正面に住塚・国見、鎧・兜などの山を見ながら歩き、樹林帯に入ると嘘のように風は収まった。午後の陽に照らされた紅葉の木々の間を降る。
 16時前、お亀池に帰る。銀色のススキの穂が風になびいている。それにしても年々ススキの数が少なくなり、心なしか背丈も低くなったように思える。40年ほど前、初めて来た頃の、まだ観光地化していなかった高原風景を話合いながらコーヒータイム。しばらく辺りを散策して、曽爾高原をあとにした。

信 貴 山

【登山日】 2010年11月26日

 仙台のciao66さんと信貴山へ行った。彼とはBLOGを通じて私の大学の後輩にあたることが分かったことから親しくなった。しかし、実際に会ったのはこの日が初めてだった。それでも毎日のようにコメントを交換したりしているので、会ってすぐに長年の知己のように打ち解けて話すことができた。今回、奈良には仕事で関西に来た帰りの途中で、飛行機の時間もあってほんの短い滞在ある。「信貴山へはまだ行ったことがない」とのことで、正午過ぎにマイカーで駅へ迎えに行った。
 朝護孫子寺の境内に入ると、まず大虎に迎えられる。境内の紅葉は今が見ごろで、青空に美しい色彩を浮かべている。塔頭のひとつ、千手院のお砂踏みは、虎の胴体の中を歩くと、敷石の下の砂を踏むことで四国八十八霊場を巡るご利益があるという。本堂にお詣りして神妙に手を合わせ、せっかくなので山頂まで登ろうと誘う。
 赤い鳥居が続くつづら折れの階段道を700m登る。2月に家内ときたときは膝が痛くて山頂へは登れなかったのだが、ようやく回復した今日は先ず快調。約20分で奥の院への道を分けると山頂の一角、織田信長に滅ぼされた松永久秀が寄った山城、信貴山城址にでる。実際の山頂(双耳峰の雄岳)は少し上の空鉢堂敷地内にあり立ち入れないので、登山者たちは普通ここを山頂(標高433m)としている。そのため山名板が何枚か木の枝に付けてあった。
 山頂の空鉢堂拝殿奥の大岩の上には小さい祠がある。山頂からの南側の眺めは手前が信貴山雌岳、その奥に葛城山、金剛山が並んでいる。少し霞んでいるのが残念だが、大和盆地に浮かぶ大和三山の一つ耳成山もぼんやり見えた。
 下りはやはり早く、あっという間に登り口に帰り付いた。霊宝館で国宝「信貴山絵巻」(ただし実物展示期間は終わり、模写が公開されていた)や、絵巻の主人公・命蓮上人の袈裟断片、楠正成の鎧など、こじんまりながら充実した展示を見学した。宝寿橋下には池のコイと浮かぶ紅葉が色を競っていた。成福院の寅大師を拝んで、千手院前の「千手のイチョウ」を見下ろすと、黄色いじゅうたんを敷き詰めたようだった。最後に私の一番好きなビューポイント、仁王門横から本堂を見上げて見学を終えた。