2011年の山旅 (9月〜12月)


金 剛 山

【登山日】 2011年9月10日 
コースタイム】青崩07:15…太尾西尾根登山口07:20…水越峠分岐(標高735M)08:13〜08:20…太尾塞跡08:55〜09:00…大日岳09:40〜09:45…仁王杉10:00…山頂葛木神社10:05〜10:10…国見城址10:15〜10:25…セト11:00〜11:10…青崩12:10

いよいよ富士山行が近づいてきた。今朝は少し早めに起きてトレーニングに金剛山に向かう。山荘風の民家の前の舗装路を登り、5分ほどで左の植林の中へ折れる。なだらかな地道の登りから、すぐに木の階段道となる。しかし、よく手が入れられていて登りやすい。急傾斜の登りが延々と続くが全く苦しさを感じずに登る。途中で勾配が緩み山腹を捲く個所が二度ほどあり、崩落したところを小さく捲くと、再び急坂の登りになる。尾根上のやや開けたところで左の水越峠からの道が合流する(標高735m地点)。ベンチで水分を補給。少し風があり、ひんやりして心地よい。再び急な登りを終えて、しばらく平坦な道を行くと、標高差150mの長い急傾斜の登り。 登り終えると太尾塞址(標高961m)でダイアモンドトレールとの合流点である。この頃から下山してくる人に何人か出会う。10分ほどで石ブテ尾根との合流点、六道辻。暗い樹林帯の中を緩やかに高度を上げながら登る。大日岳(1094m)頂上は色とりどりの花が咲く草地で、周囲一面のススキの穂が秋を告げている。西側の展望が開けるが、カンカン照りで長居は無用とすぐに歩き出す。最高峰葛木岳(1125m )の下を回り込むように仁王杉に出る。葛城山を正面に見るブナ林から裏参道を葛木神社に登る。参拝を済ませて転法輪寺へもお詣りする。行者堂の前では白衣姿の人たちが一心にお経をあげていた。今日の国見城址は土曜日のせいか人が多い。昼食には早いので水分だけ補給する。
 いつもの山名板の前で、山ガールさんにシャッターを押して貰い北尾根を下る。下山口辺りもシシウドが満開。それにツリフネ、キンミズヒキ、ヤマアジサイ、アキノチョウジ、ツユクサ、アキカラマツ…。一時、崩落して通行止めだった道は修復されて以前より歩きやすくなった。時間的に登ってくる人が多くなり、頻繁に出会う。黒栂谷との分岐・セトから少し登って山腹の捲き道になり、右手の葛城が見える場所にくる。木が茂ってずいぶんと見晴らしが悪くなった。ところどころに咲いているヤマジノホトトギスなど見ながら下る。気温が上がって、また汗がだらだら流れる。右手に石ブテ林道を見て、最後の掘割状の下りを終わり、セトからちょうど1時間でカンカン照りの林道にでた。暑さとアブの多さは相変わらずだったが、二人ともまずまず快調に歩けて満足だった。汗を拭って、冷たいビールの待つ我が家へ車を走らせた。

富 士 山

【登 山 日】 2011年9月13日 
【コースタイム】 六合目宝永山荘 05:35…新七合目06:35〜06:45…新七合目07:30〜07:45…八合目08:30〜08:40…九合目09:30〜09:40…富士宮頂上11:10〜11:25…剣ヶ峰11:40〜12:15…富士宮頂上12:27〜12:32…御殿場下山口12:36…七合九勺、赤岩八合館14:30…七合目14:45…宝永山分岐15:18…馬の背15:27…宝永山15;35〜15:45…馬の背15:57…第一火口16:30…宝永山荘17:00


2011年9月12日(月) 膝の痛みなどで2年間のブランクがあって、やや不安を感じながらも楽しみにしていた富士登山。17時、六合目着。宝永山荘は、この時期にしては客が多く広い小屋の中は混雑している。 外の台が祭壇風に飾り付けてある。教えられて気づいたが、今夜は「中秋の名月」だった。高度に体を慣らすのを兼ねて宝永火口まで散歩に行く。宝永山腹に流れる霧の幕に、はっきりとブロッケンが現れた。小屋に帰ってしばらくすると満月が登ってきた。明日の好天を約束するような夕焼けを見ていると、村山古道の再興者・畠堀操八さんのパーティが登ってきた。久しぶりの再会だった。お月見の準備は「富士の恵みに感謝する会」のもので、私たちもお下がりを頂いた。特製の猪鍋汁などで夕食後、明日に備えて早めに床に就く。 
9月13日(火) 昨夜は小屋の内外とも騒がしく何度も目を覚ました。朝方になってウトウトしていて5時前に♀ペンに起こされ、6時前出発。今年は8月が天候不順だったので、例年になく9月の登山者が多いと聞いた。歩き始めの身体には最初から急坂の登りは長く感じる。陽が登るにつれ右手からの光線が強く眩しく感じられる。雲の帽子をかむった愛鷹山が見え、その向こうに天城連山が浮かんでいる。1時間で新七合に着くと村山古道グループが休んでいた。ざらざらの砂礫の道や火山岩が転がる道を交互に登り、ブル道を横切るところで3,000mを越え、元祖七合目・山口山荘着。小屋の横でバナナとビスケットで朝食に代える。水分は一人2L持ってきたので存分に補給する。15分ほど休んで出発。ここからは溶岩塊の岩場で、歩き難く傾斜も強まる。今年の富士は若い人に人気があるようだ。それもカラフルな新素材のファッションに身を包んだ軽装の人が多い。さすがに年には勝てず、何人もに追い抜かれる。美しいポニーテールの韓国青年。あまりイチャイチャするのでどこの国の人かと思うと日本人だったペア、などと前後して登る。おかげで気もまぎれて、あまり辛くなく八合目のテラスが頭上に見えた。八合目(3,200m)から再び砂礫の道になり、ゆっくり踏みしめるように登る。右手に昔は9月でも万年雪の残っていた大きな沢が見えるが、温暖化のためか雪のかけらもない。九合目・万年雪山荘に着く。25年前に75歳だった義父は五合目駐車場から3時間40分でここに着いている。今回私たちは六合目からで4時間かかっている。100歳を越えた今でも義父が元気な筈だ。九合五勺・胸突山荘の前で最後の急登に備えてハチミツ漬けのレモンを食べる。二人で重いザックを担いでテント泊していた頃、よく口にした懐かしい味が元気を与えてくれる。いよいよ胸突八丁。二度ほど立休みして息を整えて登る。頭の上に見えていた鳥居をくぐると、いよいよ富士宮山頂だ。浅間大社奥宮に参拝した後、右手のご来光を見る岩場でしばらく休み、剣ヶ峰に向かう。砂漠のような道を左手に三島岳(3760m)を見ながら行く。右手の「このしろ池」は干上がっている。最後の難所、「馬の背」は急勾配の砂礫の滑り落ちそうな急斜面で、一歩一歩踏みしめながら「富士山特別地域気象観測所」に近づく。観測所前の階段を登り、「日本最高峰・富士山」の碑で記念写真を撮る。碑の右に二等三角点(3775.63m)があるが、実際の日本最高点(3776m)は数メートル左奥に離れた絶壁の上である。山頂の一番奥には電子基準点が設置されている。国土地理院の発表では『ピラーの高さは3mあり、電子基準点の標高(アンテナ底面)は3777.5m』でここが正式な日本最高点ということになる。『なお、これにより一般に知られている富士山の標高3776mを変更することはありません。』 ということだ。左手の展望台はロープが厳重に張り巡らされて登れなくなっている。無風快晴で陽射しが強い。唯一、日の当たらない基準点の陰で、富士山では定番にしている柿の葉寿司の昼食。
 「お鉢巡り」を割愛したので、ゆっくり剣ヶ峰で滞在して下山にかかる。目を悪くしてから遠近感がとらえにくく、完治していない膝を庇うので結構時間がかかる。長いが勾配が緩い御殿場道を帰ることにした。3月の地震で大内院(火口)周辺の壁も崩れ、以前より荒々しさを増したように思う。浅間神社奥宮から数分も行くと御殿場道の頂上である。銀明水前からの下り始めはやはり傾斜が強い。ごつごつした岩の道が何度も屈折しながら、次第に高度を下げていく。ふと右を見ると富士宮道を下る村山古道グループらしい人影が小さく見えた。一時間近く下って、ようやく勾配が緩まり、やや歩きやすくなる。午後になって雲が湧いてきたが、まだ沼津方面の市街地や駿河湾が見えている。八合目、休業中の見晴館横の岩に腰を下ろして休む。七合九勺、赤岩八合館は2008年8月に皇太子浩宮殿下が宿泊している。翌朝、山頂でご来光を見て御殿場道を下られた。それ以後、このルートは「プリンスロード」と呼ばれている。七合目からガスが次第に濃くなり辺りを包んできた。日出館の少し下でブル道を横切り、大砂走りに入る。視界は霧に閉ざされ、勾配は次第に急になる。また前回の二の舞で下り過ぎたかと思う頃に、左の六合目から来る道とT字形に交わるところに出て道標があった。ほぼ同時に霧が晴れて、正面に宝永山の斜面が見える。また霧が深くなった。前回、行き過ぎた分岐には立派な道標が立っていて、ほぼ平行な道を3分ほどで宝永山の馬ノ背の少し上に出た。左に下り馬ノ背にザックを置いて人影の見える宝永山に向かう。また青空が出てきて山頂の姿が美しい。美しく整備された宝永山頂(2,693m)には、女性3人に男性一人。馬の背に帰ってしばらく待っていると霧が流れて、ようやく富士山頂部が姿を見せた。ざらざらの斜面をゆっくり下る。上から見ると綺麗な道に見えるが、砕けた赤い溶岩が崩れやすく歩き難い。宝永第一火口の底に着いた。大きな火山岩がゴロゴロしている。2年前の2009年10月にも大きな落石があったところだ。最後の休憩をして、昨日ブロッケンを見た第一火口縁へ登る。生ビールの待つ宝永山荘まであとわずか。青空を背にしたエビ茶色の宝永山が見送ってくれている。
 富士宮道を降りてきた実川欣伸さんに会い一緒に山荘に入る。たまたま1,111回目の登頂を果たされた記念すべき日だった。

高 円 山

【登 山 日】 2011年9月27日
【コースタイム】高畑(丸山駐車場)09:17…登山口(紅葉橋)09:50…大文字火床10:17〜10:35…高円山(二等三角点432.2m)…高円山(最高所461m)…新池11:45…首切地蔵11:52〜11:57…紅葉橋(コーヒータイム)12:35〜12:52…春日大社13:20…高畑13:40


素晴らしい秋晴れの朝である。柳生街道滝坂道の入口・紅葉橋近くから右の疎林の中に入る。涸れた小沢を左に見ながら踏み跡を登るが、急坂の連続で汗びっしょりになる。勾配が緩まると白毫寺から来る道と二度出会い、すぐ上に明るい陽射しの草地が見える。大文字の火床の最下部で、眼下に大仏殿の屋根や奈良市街、その背後に生駒山や矢田丘陵、左手遠くには台高の山々も見える。近くの木陰に腰を下すと涼しい風が心地よく吹き抜けていく。10分ほど休んで、大文字焼きの炭が残る火床に沿って草地を登ると展望はさらに広がり、振り返ると右手に若草山も見える。「慰霊奈良大文字送り火由来」碑の横を通る。大文字焼きは明治以来の戦争で犠牲になった方々の鎮魂のため、昭和35年に始まったことが記されている。火床は108個あるという。林間の急坂となり、しばらく長い石段が続く。登りきると道は右にカーブして山腹を捲いていく。分岐があり、緩く登ると
高円山の二等三角点(点名・白毫寺)が埋まっていた。分岐に帰り、平坦になった道でとススキの穂がなびく、じめついた草地に出る。無舗装の林道を行くとドライブウエイに飛び出した。高円ホテル敷地内の車道に今日は車止めの鎖もないので登ってみる。地図では高円山最高所(461m)の標点があるはずだが、現在工事中でブルーシートなども見える。辺りを探し回ったが見つからないので、白い土嚢で囲まれた小さな赤い杭がそれということにしておく。
 歩行者通行禁止のドライブウェイだが、横の踏み跡が途絶えていて、結局は地獄谷石窟仏の分岐まで通らせて貰った。左に下ると新池の畔に出た。すぐに首切り地蔵前の休憩所に着いたが、辺りは20名を越すハイカーが群がっていた。一向に出発する気配がないので昼食は先に延ばし、柳生街道・滝坂の道を下る。古い石畳の道はいつ来ても風情がある。岩から滴り落ちる水、谷間を流れる水がそこはかとない冷気を運んでくる。 朝日観音、夕日観音を拝んで寝仏を過ぎると、間もなく紅葉橋に着く。朝の登山口を見送って、舗装路が始まる手前で腰を下ろしてコーヒータイム。後は駐車場まで舗装路を歩くだけ。春日大社にお参りして帰った。

竜 王 山

【登 山 日】 2011年10月17日
【コースタイム】 長岳寺 08:00…不動石仏08:50…頂上09:30〜09:50…長岳寺11:05

長岳寺山門をくぐり、枝が撓むほどたわわに実った柿を横目に見ながら緩く登っていく。お茶の木に美しい花が咲いていた。山道に入り、土嚢を敷き詰めた狭い掘割状の道や、木の階段道が延々と続く。整備されていない所は抉れた花崗岩の溝に水が流れている。一ヵ所だけロープが垂らしてあるところがあり、ここは帰りに使わせてもらう。滑りやすいジメジメした道を、ゆっくり高度を上げていくと再び急な木の階段道になり、最初のベンチを見送るとお不動さんの石仏にでる。二つ目のベンチを過ぎてもずっと薄暗い樹林帯の中。展望もなく目標も少ないので楽しみの少ない単調な道が続く。U字状の登りや階段道を繰り返しながら行くと、やや勾配が弱まって両側が植林帯の尾根道となり、長岳寺奥ノ院への道を分ける。また木の階段の連続だが、ゆっくり登り続けて天理からの林道に飛び出した。田竜王社前から少し林道を歩いて右に折れ、三角点のある南城跡に立つ。残念ながら今日は殆ど無展望で、ぼんやりと下の町が見える程度。無人のベンチに腰を下ろしてポットに入れてきた熱いコーヒーを飲む。帰りは藤井竜王社の方から最短の元の道を下る。山頂でのコーヒータイムの他は休まずに歩き、タイムも標準より早いくらいでいいトレーニングになった。 上ツ道(県道)に出る手前では、季節遅れのヒマワリの花が私たちをにこやかに見送ってくれた。

二 上 山

【登 山 日】 2011年10月19日
【コースタイム】 道の駅ふたかみパーク当麻07:45…二上神社07:55〜08:00…分岐点ベンチ08:22〜09:25…雄岳09:00…馬の背09:10…雌岳09:23〜09:40…馬の背09:45…下山路入口09:50…244.8m四等三角点10:28…二上山ふるさと公園10:54…道の駅11:00


 道の駅に車を入れ、真っ青な秋空の下にくっきりと浮かび上がる雄岳を見ながら、二上神社に着く。この神社は葛木二上(かつらきふたつかみ)神社、葛木倭文座天羽雷命(しとりにいますあめのはいかづちのみこと)神社、加守(掃守かむもり)神社の三つの社の総称である。参拝をすませ、イノシシ除けの柵の扉を開いて登山道に入る。すぐに薄暗い樹林帯の中、急な木の階段道が続く。二上山駅からくる道と合流して、ベンチで一息いれる。しばらく緩やかに登り、右に大きくカーブする地点から丸太の階段、続いて左に曲がると岩交じりの急な登りになる。一か所、鉄梯子も付けられている。尾根にでるとなだらかな道になり、最後のひと登りで大津皇子墓所、すぐに神社がある雄岳頂上である。一昨日、竜王山に登った後なので、今日は本当に楽に登ってきた。2月に来たときは人で埋まっていた頂上には、軽装の若い男性がただ独り。サクラの葉が色づき、ススキが風に揺れている。参拝をすませて馬ノ背に下る。ここも、登り返した雌岳も無人で気味悪いほど静かだった。10数分で腰を上げる。
 今日は前から気になっていた、直接「道の駅」へ下るルートをとる。馬の背へ引き返し、5分ほど雄岳の方に登ると右手にちょっとした岩場があり、白い塗料で「当麻道エキ」の文字と矢印が記されている。岩場は一登りで終わり、林の中にしっかりした登山道が続いている。間もなく南側の展望が開ける場所に出た。小さなベンチが置かれている。金剛・葛城と雌岳の眺めがよい。ここから再び林の中に入り、急な下りになる。この道はかなり多くの人に歩かれているようだ。土を階段状に掘り下げたり、水の流れる溝を作ったり、太い竹で手すりを付けたりと、よく整備されていて歩きやすい。この坂を下ると左にカーブしてなだらかに山腹を捲いていく。右手から冷たい風が吹き上げてきて心地よい。 ずっと木陰で夏も涼しく歩けそうだ。少し開けた鞍部から短い登りになる。コンクリートブロックで保護された四等三角点があった。地図の244.8m地点である。小さなアップダウンで分岐する踏み跡も増えたが、一番よく歩かれていそうな稜線を忠実に歩く。少し長い登りのあと絶好の見晴らし台にでた。青空の下に雄岳と雌岳が並んで見送ってくれている。暗い林の中をちょっと下って、登り返すと広いT字路にでた。標識があり、「ふるさと公園」の上部にでたことが分かる。石段途中(276段目)の合流点へ下ると上に展望台が見える。下を見ると石段が延々と続いている。膝を悪化させるのを懸念して「らくらくコース」を下った。イノシシ除けの柵があり、扉を開けて公園に入る。下山路入口からノンストップで70分かかった。大阪側、奈良側からと何度も登っている二上山だが、この初めての下山路は変化があって面白かった。 

信貴山から高安山

【登 山 日】 2011年11月14日
【コースタイム】信貴山駐車場09:23…信貴山頂<437m>09:50〜10:00…高安城倉庫群址10:30 …高安山<487.4m>10:43〜10:45…高安山城址〈485.9m〉…信貴山城跡11:50…信貴山駐車場12:20

信貴山に二人で来るのは3年ぶり。本堂にお参りして回廊から見ると、まだ紅葉は始まったばかりのようだ。赤い鳥居が並ぶ道を登って十数分、汗ばんでくる頃に雄岳山頂(437m)の空鉢堂に着く。空鉢堂にお参りし、お堂の周囲を巡ると、竜神を祀った社がいくつもある。これは信貴山の祭神・毘沙門天がときに龍の姿で顕われるからだ。少し下った信貴山城跡に山名札がたくさんぶら下がっていた。天正5年、松永久長が織田信長の大軍を相手に50日にわたる籠城戦を繰り広げたところである。少し急坂を下って左へ雄岳を捲くように行く。しばらく平坦な道を行き、大きく左にカーブして粘土質の急な登りになる。高安城倉庫群址は今日は展望もなく、すぐに引き返す。信貴生駒スカイラインを横断して向かいの斜面を登る。サザンカの花が散り敷く林の中を少し登ると、三角点(487.4m)である。車道に下りて「高安山気象レーダー観測所」の前に出た。空き地の奥に高みへ登る踏み跡があり、少し登ると雑木林の中の石に「485.9M」の文字が見える。近くの木に古びた「高安山」の標識が下がっていた。矢田山に地図上の三角点と、「まほろば展望所」横の最高点があるのと似ている。観測所の横でチーズケーキとコーヒーで軽いランチをとり、信貴山城跡に帰る。 歴史を感じる二つの山頂と山城巡りをすませ、鳥居の道を下る。期待した紅葉には少し早かったが、爽快な気分で半日の山歩きを終えることができた。

高 取 山

登 山 日】 2011年11月25日
【コースタイム】壺坂寺09:45…五百羅漢分岐09:55…五百羅漢10:05…八幡神社10:40…高取城址(壺坂口門)10:50…三角点11:08…壺坂口門11:50…壺坂寺12:40
 

 眼病封じ、お里沢市の夫婦愛で知られる西国霊場第六番・壺阪寺に車を置き、石段を登って車道を10分ほど歩くと、慶長九年(1604)の「香高山二町」の文字と種字、弘法大師像が浮き彫りにされた石柱があり、山道に入る。200mほど急な道を登ると壺阪寺の奥ノ院と言われたところに出る。巨岩に彫られた五百羅漢は、よくみると一体一体が顔の表情や姿態が異なり、何度見ても、なかなかの迫力だ。「五百羅漢歩道」には羅漢だけでなく、菩薩、明王、諸天、如来など数々の石像が散在する。落ち葉に埋もれた踏み跡を磨崖仏群を見ながら登り、釈迦如来像のあるところから緩く下って登山道に合流する。道標が至る所にあって、道迷いのしようがないハイキングコースを行く。やや登りになって無線塔への舗装路が分岐すると、「高取城址」の大きな石の標識がある車道にでる。ふたたび山道に入り、八幡神社への石段を往復する。かっての高取城八幡曲輪にあり城の鎮守とされたが、明治の廃城以来は荒廃して、今は石段の上にある小さい祠を一対の古い狛犬が守っている。前回(2008年3月)来たときは発掘調査中で通れなかった道に入る。次第に急になる道や手すりの付いた階段を登っていくと、ほどなく壺坂口門に着いた。中門を通り二の丸に来る頃から、真っ赤に色づいたカエデが青空に映えて美しい光景を展開する。大勢のカメラマンが三脚を立ててシャッターチャンスを狙っていた。高取城は日本三大山城の一つ(後は備中松山城と、美濃岩村城)で非常に大きな規模の城だった。大手道から本丸までには十ケ所の門を潜らねばならず、その上に二重構造の天守が設けられていた。麓から仰ぐ白亜の天守や櫓は、
「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と謡われた。また、この城は大和郡山とも縁が深い。築城は南北朝時代の越智氏(南朝方)だが、織田信長の「大和一国一城令」により一端廃城となる。天正年間、筒井順慶により大和郡山城の「詰の城」として復興。さらに豊臣秀長が郡山城主となってからは、重臣の本多氏を城代として経営にあたらせている。まずは天守址にある高取山三角点(584m)に登る。山名板は本丸反対側の展望盤のところにあり、こちら側はひっそりしている。
 紅葉の向こうにどっしりと控える金剛、葛城が見える。西には特徴のある姿で一目で分かる高見山が…。そして南には黒い雲に覆われた大台、大峰の山々が連なっていた。落ち葉に埋もれた本丸の一角で、暖かい陽射しを浴びてコーヒータイムを過ごし、素晴らしい色彩の饗宴に満足して元の道を帰る。八幡社分岐のところで男女のグループに出会った他は誰にも会わず、静かな帰り道だった。五百羅漢からは左に下りる別の広い道を行くと車道に出て、少し下に「壺坂古道・世尊寺」の標識があった。大観音像に見送られて壺坂寺へ下る。天候に恵まれた上、予想以上に見事な紅葉をたっぷり鑑賞できて満足して家路についた。