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初めて山らしい山に登ったのは大学時代、それも卒業の前年だったから、人よりはかなり遅れて山の魅力に取り付かれたことになる。仲のよい同級生6人で卒業前に山陰へ旅行をしようと相談がまとまった。大山がプランの中に入ったのは、多分すでに社会人の山の会に入っていたNあたりの発案だったのだろう。6人ともお揃いの黒いベレー帽とソックスで、私のキャラバンシューズとザックは借り物だった。大阪から夜行列車で米子に向かい、バスを降りた大山寺から歩き始めた。
1958年11月2日のことだったが、正面登山道を登っていくと、自衛隊が出動していて異様な雰囲気で、聞くと前日に遭難者があり遺体収容作業中であった。頂上近くなると凄い風雪で、ダイセンキャラボクの茂みが真っ白になっていた。視界がほとんどきかず、剣ヶ峰はあきらめて元谷を下った。景色も見えず苦しいだけだった山が、なぜこんなに私をのめり込ませるきっかけになったのか、時々不思議に思う。
その時の写真がある。灰色の空をバックに、落葉して寒々とした林。ゴロゴロ白い石の転がる河原に腰を下ろして、みんなで歌った「雪山賛歌」。「また来る時には笑っておくれ」単なる青春の感傷だったのだろうか?胸が熱くなって涙が出そうだった。それまでの私の知らなかった世界が、大きく目の前に開けようとしていた。
それから僅か3ヶ月後の2月下旬。2尺4寸のキスリングを背負った私とNは、厳冬期の大山を目指して、卒業試験の教室からそのまま大阪駅に直行した。この3ヶ月で六甲山東尾根縦走、鈴鹿・霊仙山、六甲・大月地獄谷遡行、年末の比良幕営行、正月3日間の比良・武奈ヶ岳から蓬莱山縦走、金剛山南尾根縦走と、初心者にしては結構ハードな山行をこなし、安物(ホープ製)ながらピッケルとアイゼンも揃えた。
「0705 大山口。0745 大山寺で朝食後、08:40
発。細かい雪。2合目で雪止み快晴。正面登山道を登る。」山日記の記事は簡潔である。八合目辺りで監視員か指導員か、どこかのパーティのリーダーか知らぬが、腕章をつけた人が私たちを待ちかまえていて、「お前らは山を知らんのか。ここは雪崩の巣だぞ」とこっぴどく叱られた。「1230
頂上小屋(‐2℃)。ラジュウス(コンロ)の調子が悪く、漏れた石油に引火」慌てて雪のいっぱい詰まったバケツを被せた。結局、何を喰ったのかは覚えていない。ガスが出始めたので、またしても縦走は諦めて夏山道を下る。二人ともイライラして、つまらぬこと(これも忘れてしまった)で口論し、お互いに意地を張りあって別々にラッセルをして二本の道を付ける始末。所々ヘソの上まで雪があり、時間は徒らに経過するし、疲労困憊の挙げ句いつの間にか交代で先に立って、仲良く背を接して下る。17:45
大山寺着。夜行で行き夜行で帰るという、しんどい山だった。
3度目の正直で稜線を歩いたのは、それから丁度20年後の夏(79年7月下旬)である。その頃、勤め先の高校に職員山の会が出来、自然そのリーダー役を務めるようになっていた。車4台に分乗して大山寺に着き、民宿に泊まった。地酒を冷やで飲み過ぎた罰が当たり、翌日は二日酔いに苦しみ半バテで登る。かっと日が照りつけたかと思うと、今にも降りそうな暗い空に変わったりと、天候も定まらない。頂上で飲んだ濃いコーヒーで、やっといつもの調子を取り戻す。リーダーの面目が保てたのは、渦巻くような濃いガスの中を剣ヶ峰への縦走にかかってからだった。その頃すでに稜線の崩壊はかなり進んでいて、ナイフリッジ状の所や、岩を跳ぶようにまたいで通過する所が随所にあった。気の弱い人が後込みするのを宥めすかし、年配者教員の手を引くなどして、全員で剣ヶ峰に立つ。ここまで来ると引き返すことも出来ず、更に痩せ尾根を進む。ユートピアの明るい草付きで一息つき、あと一息の三鈷峰は断念して元谷へ下る。砂走りにかかる頃には、気まぐれな空から真夏の光が降り注いでいた。
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