1960年の南アルプス行

40年前の古い山日記(日本山岳会編・茗渓堂刊の赤い小型の表紙でした)に、9歳違いの弟・治好と、初めて南アルプスへ行った記録が残っていました。私が26歳、弟は高校2年の時のことです。日記には当時の装備や費用なども書いています。アルバムも探し出してきて、しばし若かりし頃の山行を懐かしみました。
この年(昭和35年)は、60年安保で日本中が大きく揺れた年です。6月には、国会南通用門でデモ隊と警官隊が衝突し、東大生の樺美智子さんが若い命を散らしました。社会党の浅沼委員長が三党党首討論会の最中に、右翼の青年に刺殺されるという事件もありました。ローマオリンピックでは、エチオピアの「裸足の英雄」アベベが新記録で優勝。登山の世界では、アピやヒマルチュリなどヒマラヤの未登峰が日本隊によって登頂される一方、谷川岳一ノ倉沢の岸壁で宙吊りになった二人の遺体が、自衛隊の銃撃でザイルを切断して収容されるという事件もありました。大峰山麓・洞川にある竜泉寺が1300年に及ぶ女人禁制から境内を解放した年でもあります。
さて、私と弟は終戦記念日の8月15日、20時25分発の急行「ちくま」で大阪を発ちました。塩尻経由で飯田線・伊那北駅に着いたのは翌日の6時15分、大阪からの運賃は840円、弟は学割で600円です(因みに現在では、同じルートで「ひかり」と「しなの」を利用して10,080円、所要時間は5時間20分と「駅すぱーと」で出ました)。ここからバス(150円)で戸台に着いた二人の背には、それぞれ2尺4寸の帆布製横長キスリング。小屋素泊まりですが、当時の装備では7貫(約27s)を越す重量となりました。次は、その時の衣料品以外の共同?装備表です。

飯盒、コッフェル、鉈、うちわ、たわし、まな板セット、粉石けん、缶切り、ラジュウス、石油、ポリタン、点火用アルコール、靴とラジュウス修理用具。携帯ラジオ、カメラおよび付属品、食糧、非常食、ビタミン剤。
若い方にちょっと説明しますと、鉈(なた)はルート開拓や薪用にどの山に行くにも持っていきました。ラジュウスというのは石油コンロで、上の火皿にアルコールを入れて暖め、ポンプで加圧して気化したガスに火を付けて使います。これがよく故障するので、パッキングなどの修理用具も要ったのです。靴の修理には釘や針金、ペンチも持っていきました。
食料は次の通りです。
<主食>米3升、パン4食分、チキンラーメン4食分
<副食>カレー缶、ハイシ缶、ハム、福神潰、からし漬、目刺し10本、スープの素、タマネギ、ちりめんじゃこ、とろろ昆布、キュウリ4本、雲丹、豚肉(味噌潰け)
<間食>ココア10杯分、ジュースの素16、チーズ小4、おこし、ピーナツチョコレート、チョコレート4、するめ3枚、いが燻製、干しぶどう、クラッカー2本、ジャム、みかん缶詰3個<調味料>醤油、砂糖、味の素、茶の葉、マーガリン2、マョネーズ、チーズなど。
米を除いた食料費は全部で約1,500円で、結構、潤沢です。チキンラーメンはこの2年前の58年に日清食品から発売されたばかりで1袋35円でした。まだ地方では売っておらず、3月に唐松岳に登る前に、須坂の町中を探しましたが「チキン…?何それ」という感じで買うことが出来ませんでした。レトルト食品など、夢にも考えられない時代です。コーヒーがないのは、この年8月に森永製菓インスタント・コーヒーを発売したばかりで手に入らなかったからです。豚肉はコッヘルに味噌を入れ、その中に重ねて漬けてあります。夏場の腐敗を防ぎ、切れ端が味噌の中に残るので、翌朝の味噌汁の味が良くなりました。アルコール類がないのは、金がなくて買えなかったからです。
今は戸台口から長谷村営バスに乗ると1時間ほどで北沢峠に着きますが、当時は一日がかりです。戸台川に降りると、3日間降り続いたという雨で増水し、濁流が広い河原いっぱいを凄い勢いで走っています。
「橋が流失していて、最初から急坂のブッシュの中の高捲きの連続で、l時間ほどで簡単にバテる。橡小屋跡を過ぎたところで、丸木橋の上を水が越している所があり、ここは前のパーティと力を合わせて、捕助ザイルで渡る。」
男女ペアが補助ザイルは持っているものの躊躇していたので、これ幸いとそれを借りて弟と何度か往復して荷を運び、4人とも無事対岸に着きました。

「ちょっと緊張するとバテたのはどこかに吹き飛んでしまった。更に何度か徒渉を重ね、ようやく河原沿いの道にで、丹渓山荘前で昼食。予定時間より2時間半遅れている。ここから八丁坂の急坂だが、河原の道よりは精神的にかなり楽だ。東大平を過ぎた頃、道端に全身痙攣の病人あり、連れの人が山荘に連絡に降りる間看病する。北沢峠まで再び登り。薄暗くなった道を急ぐ。小屋に入った頃にはちょうど日が暮れた。炊事の設備も整い、感じのいい小屋だ。」小屋は素泊まりで200円でした。
2日目(8月17日)荷を軽くして仙丈岳を往復。「頂上には立派な方向指示盤があり、その上に、今日の日付とヤブ沢の水と書いたラベルを張ったウィスキー瓶が置いてある。ありがたく頂戴する。時々北岳がガスの中から見え隠れする。藪沢のカールヘ降り、お花畑の中を藪沢小屋ヘ。小屋の前で昼食。後はのんびりと小屋へ帰り、早く夕飯を済ませて明日に備える。」


 3日目(8月18日)快晴。北沢小屋〜仙水峠〜甲斐駒ケ岳〜七合目七丈小屋(泊)
「荒れた河原をケルンを頼りに仙水峠ヘ。ザックがいやに背に重く感じる。峠は石がゴロゴロしていて、変わった峠だ。鳳凰の地蔵仏がよく見える。ここから駒津への登りは、全行程中、一番、辛かった。足が思うように進まず、遂に、弟に先に行ってくれと弱音を吐いてしまった。樹林帯を抜けて、ハイマツの中を、何度も立ち止まって向かい側のアサヨ峰の高度と比べながら、ゆっくり登る。富士が次第に大きく姿を表してくる。駒津の頂上はすばらしい。富士、鳳凰、北岳、間ノ岳、仙丈が絵のように連なっている。駒と摩利支天はすぐ目の前だ。一時間近く道草を喰ってしまう。六方石の鎖場は大したことはない。ここから摩利支天の分岐への登りは、ロックガーデンを思い出すようなザラザラに風化した砂の上の急傾斜で、日光の反射で目が痛いほどだ。頂上の駒ケ岳神社の祠の前で昼食。駒津頂上からの展望に加えて、八ケ岳がすぐ下に大きく裾野を拡げている。頂上からの下りは、所々に鳥居や、岩壁に摩利支天の字があり、宗教的なニオイが濃い。鎖やハシゴも何カ所かある。重装なのでキレットより緊張する。七合目の小屋は森林限界にあり、展望も良いので、時間はあったがここで泊まることにする。夕方よりガスが降りてきて、霧雨降りだす。小屋は30人定員の所ヘ、たった6人。悠々と大の字になって寝る。」この小屋も200円でした。

4日目(8月19日)黒戸尾根の岩稜を下り、駒ケ岳神社前からバスで牧ノ原へ。料金は40円ですがバスはここまで。日野春駅までは45分歩いて登らねばなりません。
「日野春への登りでまた一汗かく。駅で金の計算をするとギリギリだ。松本へ寄り、風呂に入り、¥80のカレーとそば一杯。汽車に乗っても寝るより他に手がない。例の四等寝台(つまり座席の下に新聞紙を敷いて)にもぐり込む。朝食はクラッカー半分。京都でようやくパン三つ買う。今度ばかりは、初めて早く家へ帰って飯を食いたいと思った。」大阪駅に着いたのは翌日の昼前でした。