New York で5針ぬったおはなし

 古い話で恐縮ですが、2000年7月の12日から17日までニューヨークとシカゴへ家族3人で行って来ました。
 息子が高1で、遊べるのは今年が最後、あと二年間は受験勉強をしてもらわねばならない、とのことで夏休み前の(夏休みにはいると補修があるので)試験休みを利用しての駆け足旅行です。

 JALの「悟空」で一人123000円。12日10時半、関空発です。グローバルクラブは水戸黄門の印籠のようなもので、安い切符にもかかわらず、カードを見せるだけでファーストクラスのカウンターでチェックイン。シカゴまではJAL、シカゴ/ニューワークはアメリカン航空とのコードシェアー便です。
 ニューヨーク着は1330。家内の妹一家(スイス国境に近いフランスに住んでいます)がちょうどNYCに立ち寄っており、夕方向こう3人、こちら3人の6人の団体を結成。ニューヨークを練り歩きました。
 ホテルは6と7、56と57の間の「ル・パーカー・メリディアン」、小さいながらも洒落たいかにもフランス風のホテルです。

 二日目の13日は去年亡くなった私たちの仲人、アダムスさんの奥様に会ってご挨拶をし、食事をご一緒しました。夜はブロードウェイでミュージカル(アイリッシュのタップダンスのやつ)を見ました。

 三日目、14日は朝からセントラルパークでのんびりして、New Yorker 気分に浸り、穏やかな時間を過ごしました。このあと起こることは誰も予想だにしませんでした---。
 「Iridium」というジャズクラブがコロンバスサークルにあります。近くに公衆電話が無く、おまけに電話番号もわからなかったので、私はIridiumへ予約に、家内と息子の二人は買い物をして、7時半にMoMAのミュージアムショップで会おうということで分かれました。
 コロンバスサークルは思ったより遠く、目指す「Iridium」も見つかりません。確かこのあたりにあったのに・・・、と思いながら付近を探すこと半時間。気がつけば約束の7時半が近づいています。Iridiumはあきらめてとりあえず約束の場所へラッシュ! いよいよ、間に合わないと、途中から走り出しました。携帯電話があったらこれほど焦る必要はなかったのにね。
 ポケットの小銭がクリスマスのトナカイのように音をたてるので右手をポケットにつっこみポケットの中で小銭を握りしめ、走りに走ります。ヒルトンホテルの近く、Americas53丁目の交差点を渡ったところで事件は起きました。

 北から南へ横断歩道を少しはずれたところをわたって、車道から歩道に上がろうとしたら縁石の高さが私の足の上がり方より高く、必然的に足が縁石に引っかかり、体は前へつんのめり、右手はポケットの中(左手はどうしていたか覚えておらず)、受け身の姿勢をとることもできず、左頬から着地。「やばい!!」と思ってもどうすることもできず、スローモーションのような感じで、続いて左のおでこを強打。こめかみから血が噴き出しました。「流れる」というより「噴き出す」と言う方が正解で、自分でもびっくりするほどです。掛けていためがねはバラバラになって飛び散りました。ハンカチもティッシュも持っておらず(反省)、長袖のシャツの袖部分で傷口を押さえます。
 余程派手な転び方をしたのか、余程派手に血をまき散らしたのか、近くにいた人たちが寄ってきて「大丈夫か?」と口々に声をかけてくれます。ティッシュをくれたり、「救急車を呼ぼうか?」とか「誰か連絡する人はいるか?」と聞いてくれます。「誰かにやられたのか?」と聞かれた時はニューヨークらしいと思いました。一人の人はバラバラになっためがねのパーツを拾い集めて渡してくれました。このあたり、アメリカ人は日本人より数段親切です。日本人は親切というイメージがありますが、こんな時には多分遠巻きにして興味本位で見ているだけでしょう。一方アメリカ人は普段は個人主義のお国柄で人は人、私は私の生活をしていますが、いざという時にはたよりになる存在であるように思いました。
 MoMAのショップで二人と会う約束だったのでそこへ行くと「血まみれのヤツが店に入ってきては困る」と思ったのか、親切からか、セキュリティーが声をかけてきました。妻と息子を探していると言うと、店内を探しに行ってくれましたが、いないとのこと。血を見てペーパータオルをたくさんくれました。
 Hui-Chun Wuさんという中国人の留学生が日本語で話しかけてきて、何か役に立てることはないか、と聞いてくれました。血まみれで街を歩き回るわけにもいかないので、「私はホテルに帰るからもし二人を見つけたら伝えてほしい」とお願いして左こめかみの傷口をきつく押さえながらホテルへ帰りました。
 ホテルのロビーに入るやいなや、ここでもセキュリティーがどうしたのかと聞きます(もう出血は止まっていましたが、相当ひどい格好だったのでしょう)。委細を説明すると無線で連絡してボスが出てきました。彼の部下への指示は的確ですばやく、部屋まで一緒に行って家族と連絡がとれるまでケアをするように、とのことでした。部屋で顔を洗ったり血染めのシャツを脱いだりしていると二人が帰ってきました。例の中国人女性が二人を探しだして事態を伝えてくれたそうです。
 セキュリティーのボスがやって来て病院に連絡してくれました。St.Luke's - Roosevelt Hospitalというところで、皮肉にもIridiumを探してうろついていたコロンバスサークルのすぐ近くの病院です。タクシーで5分ほど。
 8時半ごろに救急外来の窓口へ行って書類に記入し、その次の予備診察でまでは早かったのですが、ずいぶん待たされて処置室へ。いわゆるER、テレビでやっている「ER」のあの佇まいです。入ってからもずいぶん待たされて、あす朝はシカゴへ出発するので妻と息子はホテルに帰し、ひとりで待っていました。男の医者が来て傷を調べ、消毒をして、縫わなければならない、と言って出ていってからしばらくして女性の医者が来て頭痛、めまい、吐き気、などの有無を聞いたり、まっすぐ歩けるか、片足で立てるかの検査などをして、また出ていきます。その間も血圧、脈拍のセンサーはずっと付けられたままで、歩き回ることはできません。次に看護婦が来て破傷風の予防注射はいつしたかと聞きます。小さい時に済んでいるはずなので、その旨伝えるとアメリカでは10年に一回受けなければならないと言います。結局予防注射までされました。
 ようやく処置がはじまった時はもう日付が変わっていました。さっき検査に来たMariam Ziaie-Matin,MD Internal Medicineという名札を付けた若い女医さんが現れ、麻酔の注射をしたあと左目の上、まゆの上に沿って5針ぬってくれました。彼女はとてもかわいい人で、名前から察するにユダヤ系だと思います。丁寧に縫ってくれたおかげで深いしわが一本増えただけで醜くなることもなく、きれいに治りました。Mariamさんありがとう。
 そのあともなかなか帰してもらえず、釈放されたのは朝の4時まえ。保険に入っていたので一銭も払うことなく、病院を出て、あいにくの雨の中を少し歩いて、大通りでタクシーをひろい、ようやくホテルへ帰りました。長い長〜い一日の終わりです。

 四日目、15日は2時間ほど寝ただけで出発準備をして、ラ・ガーディア空港からシカゴへ移動しました。早めにアメリカン航空のカウンターへ行ったのですが、ごった返していて手続きが進みません。昨日から悪天候でキャンセル便が続出しているらしく、我々が乗ったのも結局お昼をかなり過ぎてからでした。
 シカゴ到着後すぐインターコンチネンタルホテルにチェックイン。荷物をおいてタクシーに乗って昔の帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトが住み、彼の作品が数多く残る町、Oak Parkへ向かいました。着いたのが5時を少しまわっており、ミュージアムショップで買い物ができなかったのが残念です。しかし、彼が設計した家々をゆっくり歩いて見て回ることができ、良い時間を過ごせました。
 帰りはCTAという電車に乗りました。一直線でシカゴのダウンタウンまでのびています。ホテルの案内人がなぜこの電車に乗るように教えてくれなかったのだ、と怒りましたが、そのわけはやがてわかります。オークパークとシカゴの間は大半が黒人居住区らしく、途中から乗ってくる人たちは皆黒人なのです。こちらは特に気にもしませんでしたが、向こうが意識して時々挑発してきます。途中乗ってきた黒人警官は我々を見てびっくりした様子で、緊張したような感じでした。あとから聞いた話では、あの路線は白人や観光客は乗らないとのこと。良い経験をしました。ニューヨークは人種のるつぼだけあって差別は感じませんでしたが、シカゴは厳しいものがあるようです。
 アメリカ最後の夜なので夕食はステーキを食べに街へ出ました。息子はTボーンステーキを注文。大きすぎて、やはり残してしまいました。

 五日目、16日は午前中ミシガン湖まで散歩したり、街をぶらぶらして映画の舞台となった場所をみたり、丁度日曜日だったのでフリーマーケットを覗いたりで過ごし、シカゴ・オヘア空港発は15時10分JAL029便です。ここでも「印籠」のお陰でさくらラウンジでゆっくりして、機上の人となりました。空いていたのでアッパーデッキの横一列を各自が占領、横になって疲れることなく関空に翌17日18時30分到着しました。メデタシ、メデタシ。

4泊6日の駆け足旅行でしたが、中身充実! 楽しくて、ちょっと痛い珍道中、一巻の終わりであります。

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