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Masanori Kimura
date of birth: 19 Nov. 1948
address: Nara-city, Japan

氏名:木村雅則
生年月日:昭和23年11月19日
住所:奈良市
勤務先:木村商事株式会社
趣味:ヨット、Mac、ジャズ
メンバー:Vibre Ocean Club, Nara Rotary Club, etc.....

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幼稚園:下市町立下市幼稚園(越境入園)
  今と違って、1年間だけだったように思います。

小学校:下市町立下市小学校(越境入学)
  千石橋のたもとの堀内の花屋さんに集まって、6年間歩いて通いました。集団登校できるほど沢山の人数が大淀町から下市に越境していたわけやね。
堀内の花屋さんの電話番号は317番でした。なぜか記憶にある!
校歌は「清き吉野の川ほとり・・・」です。

中学・高校私立東大寺学園
  菁々中学に入学して中3のとき高校ができ、東大寺学園と名前が変わりました。東大寺学園高校の2期生です。「松千年の〜」と「若やかに〜」の二つの校歌を覚えています。「よく遊び、少し学び、よく怒られ」の学生生活でした。
大仏殿横の池で採ったバケツいっぱいのザリガニを校舎の玄関横に捨て、それが腐って悪臭が消えず怒られたり、セルロイドの下敷きを短冊に切り鉛筆キャップ(サッポと呼んでいた)に詰め、ペンチで下部を絞ってロケット点火!、国宝のど真ん中で火遊びをしたら、そら、怒られるわなあ。
100人中、常に5番以内(後ろから)が自慢?です。 同級生は皆、偉くなっています。Hi.

予備校早稲田予備校(高田馬場)
  慶應を受験しましたが断られ、浪人になりました。(勉強しなかったので無理もない)。慶應へ行くには一橋学院が良い、と聞いたので早速上京。高田馬場へ行きました。駅をおりて一橋学院を探していると妙に目立つ矢印があり、それについていくと早稲田予備校に着きました。優柔不断の私ですからこれも何かのご縁と、早速入学手続き。しかし授業が始まってみると物足りなく、途中で編入試験を受けて「早慶ターミノロジー?」というクラスにかわりました。
自慢は皆出席。入試が終わってからも授業に出ていました。

下宿
  下宿は最初は江古田の日大芸術学部や武蔵野音大の寮の近くの練馬区小竹町でした。なぜ最初かというと途中で反乱を起こして飛び出したからです。理由はメシのマズさ。今は地下鉄の駅が近くにできて当時の面影はありません。
さて、飛び出したあと中目黒の駅の近くに移りました。隣の家とは異常接近しており、昼尚暗い3畳間(だったと思う)。金目鯛の煮付けがよく出ました。

大学慶應義塾大学商学部
  はれてKEIOに入りましたが、学生運動真っ最中で入学式もなかったように思います。バリケードで封鎖された校舎(にも拘わらず授業はあった)で今から思うともったいない日々を過ごしていました。クラブは華麗に滑ることを目的とした「ショカールスキークラブ」。日吉記念館前やマムシ谷での陸トレ、野尻湖の夏合宿はきつかった反面、冬の合宿は以外と楽でした。
ゼミは浅井慶三郎先生のマーケティングです。卒論は日米比較マーケティング。まだローソンができる前にコンビニエンスストアの研究をし、小売産業で重要な存在になることを予告。(なら、なぜ自分がやらなかったのだ!)
卒業式も学生紛争のため三田の大教室でひっそりと執り行われました。卒業に5年かかったお陰で早慶戦に3シーズン連続優勝。4年で卒業した人たちは1回しか優勝を知りません。お気の毒様。
学生寮:和敬塾
  大学時代は目白台の和敬塾にお世話になりました。田中角栄邸、椿山荘、日本女子大、東京カテドラルの近所で、旧細川侯爵邸を譲り受けて設けられた学生寮です。全国各地から様々な大学の学生が寄宿しており、あの村上春樹も我が西寮にいました。ノルウェーの森に当時の様子やら、友人がでてきます。
大学2年のときに・・
  自動車の運転免許を取ったのが昭和45年。43年4月の入学ですから、1回目の3年生のときです。それまでは運転免許ナシ。奈良県の運転免許試験場が橿原市の新ノ口というところにあって、何回か直接受けに行き、何回か断られました。で、免許が無いなら免許なしで乗れる自転車なら文句なかろうと、大学2年の夏、東京から吉野の家まで自転車で帰りました。
 当時はリッチな学生生活だったのですねえ、あまりにも世間知らずでもありました(親は苦労したに違いない)、日本橋の高島屋で丸石製スポーツタイプ、21段変速の自転車を買いました。
 朝5時目白を出発。どの道を通ったかは忘れましたが、三島と浜松と三重県の関に泊まりました。一日目に箱根の山を越えたのですが、天下の剣はさすがにキツく、登りは自転車を降りて押して歩きます。これだけ登ったら下りはさぞらくちんだろうと期待しましたが、前が見えないほどの霧でブレーキが濡れて滑って効きません。とうとう下りも歩きでした。三島まで下るとさすがに疲れ、駅で旅館を紹介してもらって、わらじを脱ぎました。旅館紹介所で予算を聞かれたので、2000円(標準的な宿泊料金はこんなものと思っていた)と答えましたが、駅近くの木賃宿にとって2000円はスイートルームにも値するらしく、総出で接待してくれました。食事は量がとてつもなく多く、かえってご迷惑をかけたような感じです。
 次の日は浜松のユースホステルに泊まりました。道や景色は覚えていません。ただ、大型車が横を通ると吸い込まれそうになります。
 3日目は岡崎、名古屋を通って三重県に入り、関のバス停の小屋で野宿をしました。蚊がいっぱいいて、大変でした。
 4日目は25号線から163号線に入って、木津川沿いに西へ。奈良の店に着いたときはホッとしました。そこで一服したあと南下、大淀の家には明るいうちに着きました。おしりがおさるになりました。結局4日間。案外早いものです。

もう一つ。免許を取ってはじめて(買ってもらった)の車が「日産ブルーバードSSSクーペ」でした。当時サファリラリー優勝の車として有名で、色はダークグリーンです。二番目の車は日産ローレル。エアコンは付いていませんでしたが、それが当たり前だったのでしょう。夏に国立音大に通っていた親戚の子を乗せて東京から吉野へ帰る途中、暑いので風を多く入れるためにスピードを出していて41kmオーバーでつかまりました。菊川のインターでおろされて・・・

Stanford Univ
  大阪で万博があった年、スタンフォード大学に「ちょっと留学」をしました。せっかくF-1 VISAをとって正式な留学手続きができていましたので、卒業するまで頑張れば良かったと後悔しています。でも、少しでも米国生活を体験できたことは一生の財産です。

JC
  吉野に青年会議所ができるので、入らはりまへんか、とお誘いがあり、早速入会しました。日本JCへの出向が多く、青年の船に3回乗船。主に国際畑を歩きました。会社の方は何にもセンムだったので、「JC命」で世界中を飛び回ったおかげで世界各地に友達ができ、視野も広くなりました。

↑↑↑↑↑↑↑ 以上すべて今は昔のお話です ↑↑↑↑↑↑↑

     

日本青年会議所第5回青年の船のスタッフの同窓会の記念写真です。故吉田宏団長、
麻生太郎本部長(自民党政調会長)同令夫人を囲んで、後列右端が私です。

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