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『ラインの守り』あれこれ(続き)
  Etwas über "Die Wacht am Rhein (Forts.)"



出版人フリードリヒ・コーン

ところでクラーラ・フィービヒと結婚したフリードリヒ・コーンとはどのような人物だったのか。イベリア半島を出てライン地方を経由しベルリンに定住したユダヤ人の家系で、父ヴィルヘルムは博士号を持つ化学者、ベルリン郊外で化学工場を経営していた。母は3人の子供を残して30歳台で亡くなったが、「天使のように美しい女性」(*)だったという。長兄エルンストは婦人科の医師で、姉妹のケーテも教養ある女性だった。若くして最初の妻を亡くした父はオデッサ出身のアンナ・レートリヒと再婚した。活発で新しい物好きな女性で、出たばかりの電気自動車を所有し、またさまざまな音楽家との交流もあった。

フリードリヒはハンブルクの叔父リヒァルトの許で商人の見習いとなる。ヨーロッパ各地で修行し、またニューヨークにまで赴いて研鑽を積んだが、帰国するとあっさり商業に背を向け出版界に転進、作家テオドール・フォンターネの末子フリードリヒ Friedrich Fontane (1864-1941) の出版社の経営に加わった。二人のフリードリヒは生まれも1864年の同年、どのような経緯でつながりが出来たのか不明(**)だが、88年にF・フォンターネが弱冠24歳で設立した出版社「フリードリヒ・フォンターネ出版販売会社」の共同経営者となったのである。父親フォンターネは息子の出版業経営には賛成でなかったが、作品『ペテフィ伯爵』『シュティーネ』『ジェニー・トライベル夫人』『エフィー・ブリースト』『シュテッヒリン』などはここから刊行された。

Jos. Sattler: PAN F・フォンターネはリヒァルト・デーメル、オットー・ユーリウス・ビーアバウム、デートレフ・フォン・リリエンクローンなどの詩人、またフランツ・シュトゥック、マックス・リーバーマンといった画家による新時代の豪華な美術文芸雑誌「パン」(1895 創刊、 1900.6.15 最終巻)の刊行にも加わっている。これはわが国の明治末期のロマン主義的・芸術至上主義な文学者・美術家の集まり「パンの会」にその名を伝えた。会は芸術家の集うパリのカフェに倣って作られたが、野田宇太郎の『異国情調の文藝運動』によれば「《ユウゲント》が創刊された一八九六年より二年早く、一八九四年伯林で、ビイルバウムやマイエル・グレエフエ等の藝術家、詩人、評論家を一丸とする藝術運動として《パンの会》と云ふ同名の会が起り、《パン》と云ふ機関誌が発行されてゐた。それは一九〇〇年に解散するまで二十一号を発行し、文学と美術に新方向を開拓したのであつた。勿論この会のことは当時の日本にも紹介されてゐた。その会名をとつて東京の《パンの会》も誕生したのであつた」(「日本ペンクラブ電子文藝館」から引用)とある。

F・フォンターネの出版社に、はじめ表には出ないで資金を提供していた学校友達が身を引いた後、運営資金を拠出するという形で91年(94年?)にF・コーンが経営参加したものと思われる。「合資会社」 Kommaditgesellschaft となり、社名は Friedrich Fontane & Co. と改められた。資料によっては1891年にエーゴン・フライシェルが、そして1893年にF・コーンが経営に参加したとある。そして1901年(1903年?)にはF・コーンはF・フォンターネと袂を分かちエーゴン・フライシェルと新しい出版社 Egon Fleischel & Co. を設立した。このあたりの時期が資料によってまちまちなのだが、古書店のカタログを見ると1900年ころから同出版社を版元とする本が見受けられる。

新しい出版社は勢いよく本を出し始める。詩集、小説などの文学書、言語論などの学術書、ユダヤ教の宗教書と広い分野で、たとえば Cäsar Flaischlen, Fedor von Zobeltitz, Gustav Landauer, Rudolph Stratz, Stefan Zweig, Ernst Heilborn, Georg von Lukács, Armin T. Wegner, Ina Seidel, Ilse Franke, Börries Freiherr von Münchhausen, Georg Hermann などの著名な文学者、流行作家が並ぶ。今では忘れられた名前かも知れないが、ツェーザル・フライシュレンは『心に太陽を持て』でわが国にも知られた詩人だったし、アルミン・T・ヴェークナーは表現主義詩人で第一次大戦に看護兵として従軍、トルコにおけるアルメニア人「虐殺」を写真で報告したことで知られ、ゲオルク・ヘルマンは120版を重ね、映画化もされた『イェットヒェン・ゲーベルト物語』の作者である。もちろんクラーラ・フィービヒの本もほとんどがここを版元としている。

さらにこの出版社の名声を高めたのは1898年、文芸誌 "Das Literarische Echo - Halbmonatschrift für Literaturfreunde" を創刊したことだろう。この雑誌は1923年から42年は "Die Literatur" そのあとは "Europäische Literatur" というタイトルで1944年まで続いた。Josef Ettlinger 次いで Ernst Heilborn そのあと Wilhelm Emanuel Süskind が編集を担当し、Otto Julius Bierbaum, Richard Dehmel, Paul Heyse, Ricarda Huch, Fritz Mauthner, Friedrich Schrader, Emile Verhaeren, Georg Witkowski, Ernst von Wolzogen, Fedor von Zobeltitz, Stefan Zweig などなど、そうそうたる詩人、作家、哲学者、学者が寄稿している。

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分からないのがエーゴン・フライシェルが何者かということ。前項「ハンス・フェヒナー」で触れたように、Friedrich Fontane & Co. という社名中の Co. は、普通に見れば Company のように思われるが実は Cohn の省略で、あからさまなユダヤ名を避けた工夫と言われる。とすれば Egon Fleischel & Co. も同じ流儀でつけられた社名なのだろうか。それにしてもエーゴン・フライシェルという人物の出自、経歴がまったく知られていないのだ。

調べあぐねていたとき、ローラント・ベルビヒ『テオドール・フォンターネ年代記』 Roland Berbig: Theodor Fontane Chronik. Fünf Bände (Walter de Gruyter Verlag, Berlin 2010) を紹介するWEBページ (books.google) で次の記述に出会って、驚愕させられた。5巻本の巻末に付された人名索引の一項目である。
Fleischel, Egon (eigentl. Friedrich Theodor Cohn, gest. 1946) , seit 1891 Kompagnon im Verlag Friedrich Fontane, gründete 1903 den Verlag Egon Fleischel & Co.
なんと Egon Fleischel は Friedrich Theodor Cohn の別名だというのだ! もしそうならいろいろな資料のばらつきの説明がつくかもしれない(ただしF・コーンの没年は1946年ではなく1936年のはず)。さらに驚いたのは、同じ人名索引でクラーラ・フィービヒを見ると、
Viebig, Clara (1860-1952) Schriftstellerin, veröffentlichte einige Werke bei Friedrich Fontane, heiratete 1896 Egon Fleischel.
クラーラの結婚相手が何の断りもなく Egon Fleischel になっている! そんなこと「クラーラ・フィービヒ協会」 Clara-Viebig-Gesellschaft の年譜も、フィービヒ夫妻の一人息子エルンスト・フィービヒの自伝も、カローラ・シュテルンの伝記(***)も、ぜんぜん言っていないぞ。こうなると『テオドール・フォンターネ年代記』本文をじっくり検討しなければいけないが、この本、アマゾンで購入できるものの価格はなんと ¥116,836 という。年金生活者に買える値段ではない。調べてみると国内では麗沢大学、学習院大学、静岡大学、富山大学に所蔵されているようなので、いつか機会があれば覗いてみたいものだ。
* エルンスト・フィービヒ Ernst Viebig (1897-1959) による。
Ernst Viebig: Die unvollendete Symphonie meines Lebens, Zell/Mosel 2012.
** エルンストも、「父は一時アメリカにいた。帰国後、まっとうな商人の道を外れて、どういういきさつか、Theodor Fontane の息子の一人と "Drei Ähren Verlag -- Fontane & Co." を設立した」と書いている。(同上書)
*** Carola Stern: "Kommen Sie, Cohn! -- Friedrich Cohn und Clara Viebig, Köln 2006.
[付記]
著名な古銭商 Adolph E. Cahn (1840-1918) の作った競売カタログの一冊に "Katalog der Sammlung Egon Fleischel, Berlin: Doppeltaler und Taler des 16. bis 19. Jahrhunderts" (1909) なるものがある。エーゴン・フライシェルは古い貨幣のコレクターでもあったか。


つべこべ言わずに歌え!

会社や役所に勤める人間が、組織の決まりや指示について疑問を呈したり意見を述べたりすると、上司が「能書きはいいから言われたとおりにしろ!」と頭ごなしに叱責する、そのような場面で、「つべこべ言わずにラインの守りを歌え!」と言うことがあったようだ。この言い回しが生まれた経緯について、G・バンベルガー『往時のこと』中の「古ベルリンの言い回しの起源」に記されている。
この言い回しは1881年に生まれた。ある退役兵士の集会で辻馬車の御者エーミール・ヴェーバーが、彼は筋金入りの社会民主主義者であったが、演説中にこう言った。「諸君は兵隊のときは命令に従って歌っていたが、今はもう退役して自由なのだから、俺のようにマルセイエーズを歌え!」 そうすると会長は発言をさえぎって、「戦友ヴェーバー君、つべこべ言わずにラインの守りを歌え!」と怒鳴った。
Diese Redensart stammt aus dem Jahre 1881. Gelegentlich einer Rede im Kriegerverein sagte der Droschkenkutscher Emil Weber, ein überzeugter Sozialdemokrat: "Während Eurer Dienstzeit habt Ihr gesungen, was Euch vorgeschrieben war, jetzt aber, wo Ihr freie Männer seid, singt wie ich, die Marseillaise!" Daraufhin entzog ihm der Vorsitzende ganz einfach das Wort, indem er ihm zurief: "Kamerad Weber, halt's Maul und sing' die Wacht am Rhein!"
-- Georg Bamberger: Anno Tobak. Allerlei Ernstes und Heiteres aus dem alten Berlin. (1925)
1881年なら普仏戦争からもう10年が過ぎていたが、「ラインの守り」はまだよく歌われていたのだろう。だがこの言い回しはどの程度まで広がり浸透したのか。たとえば歌手でコメディアン、また初期の映画にも出演したオットー・ロイター Otto Reutter (1870-1931) が作詞して歌ったクプレ(二行連詩)に、ドイツ・ミッヘル(*)を主人公にした一連の作品があり、そのひとつに、税務署に来い、税金を払え、と徴税人に攻め立てられるところがあって、ミッヘルがやり返そうとすると徴税人が、「おとなしくするんだ、さあ払え、―― つべこべ言うな ―― ラインの守りを歌え!」という場面がある。

この場面は、ロイターのクプレのテキストとSPレコードの音源を提供しているサイト Otto Reutter - einer der großen deutschen Humoristen des 20. Jahrhunderts から引用したが、残念ながらこの部分を含む "Michel und die Wehrvorlage" の音源は無いようだ。

また、私には1924年版E・T・A・ホフマン選集の編者としてその名が記憶に残る作家、ルードルフ・フランクの小説『自分の誕生日を忘れた若者』の中にもこの言い回しが登場するそうだ。「・・・そうなら彼にもお気に入りの言葉がぴったりだ。しかと任務を心得て逃げない者は立派なんだ。そうそう、つべこべ言わずにラインの守りを歌え、だ・・・」

Halt's Maul und Sing! 第二次大戦から70年が過ぎた現在、「つべこべ言わずにラインの守りを歌え!」という言い回しがなお使われているとは思えないが、ひょっとしたら前半部分は生きているのかも知れない。というのは「つべこべ言わずに歌え!」Halt's Maul und sing! というタイトルのCDが2010年に出ているからだ。

これはモーゼス・Wというコメディアン・歌手のデビューCDである。この謎めいた人物の素性については、彼のWEBサイト「経歴 VITA 」ページにこうある。
モーゼス・Wは60年代の終わりに鉄道員の息子そして鉱夫の孫としてエッセンの埃っぽい都心に生を享けた。産道にはレールが敷かれ、額にヘッドランプを付けていた。素敵な光景だ。
Moses W. kam Ende der `60er Jahre als Sohn eines Eisenbahners und Enkel eines Bergmanns im staubigen Herzen von Essen zur Welt. Im Geburtskanal lagen die Schienen, auf der Stirn trug er die Grubenlampe. Ein schönes Bild.
どんな芸風のコメディアン・歌手か関心のある向きはそのWEBサイト MOSES W. StandUp, Kabarett & Musik を覗いてみられたい。
* ドイツ・ミッヘルとは、イギリス人の「ジョン・ブル」のような、愚直なドイツ人のステレオタイプ的なカリカチュアである。中世末期に誕生したと言われるが、19世紀の三月革命期に広まった。世紀末には同名の絵入り週刊誌も刊行された。

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