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ベルリンと風車  ベルリン物語 -10-

フリードリヒ・ヴィルヘルムはいまだ「三十年戦争」の戦乱の続く1640年、ケーニヒスベルクでブランデンブルク選帝侯に即位しました。弱冠二十歳でした。翌年ワルシャワへ出向いてプロイセン公位を継承(プロイセンの宗主国はポーランド王国)したあと、1643年3月4日、ようやく首都ベルリン/ケルンに入りました。

首都は戦乱による被害のみならずペストなどの疫病また大火によって悲惨な状況にありました。当時、市の約1200戸の内300戸が空き家で、人口は12000人から10000人に減少し、五分の一は空き家、空き地という状況でした。ベルリンで845戸の内300が、ケルンで364戸の内150が廃屋で、人口12000人の内7000が残っていただけとする文献もあるくらいです。

「大選帝侯」と呼ばれるフリードリヒ・ヴィルヘルムの施政はどのようなものだったのでしょうか。それは1604年に設置された枢密院を実効あらしめるところから始まりました。24名の顧問官を任命、それまで各地の代官が権限を握っていたのを、中央から帝国全体に目を配って、東西千キロを超える広さとなった領土の行政の一元化を図ろうとしたわけです。そうして、実質的な権限を把握するために税制と軍事の改革を断行し、オランダでも行われていた Akzise と呼ばれる一般消費税を1641年にの導入、等族(シュテンデ、特権をもった諸身分)の抵抗を押し切り、全土にわたる徴税権(*)を獲得しました。

また積極的に産業振興を図りました。荒蕪地の開墾を進め、後の交通網のもととなる街道を整備し、郵便制度の整備も進められました。まず週2便の、クレーヴェ――ベルリン――ケーニヒスベルクの幹線が整備され、馬車・駅などの効率的なシステムが数年の内に全ブランデンブルクに広げられました。さらにシュプレー川とオーダー川を結ぶ運河を作らせました。これでベルリンが水路ブレースラウとハンブルクにつながったのです。

植民については、これまで放置されていた不毛の地を耕地や牧草地、建築用地にする政策を推し進めました。たとえば1649年、フリージア諸島の農民との間で、エルベ川沿いのアルトマルク(ハンブルクとマグデブルクの間)の土地を干拓し、村を作らせる契約を結んだのですが、その際自治権を保証し、カルヴァン派教会と牧師をもつことを認めたのです。この植民政策も、周辺の既存勢力の反対、領民の激しい抵抗の中で進められました。

というのも「三十年戦争」終結後、アウクスブルクの和議でカトリックとプロテスタントの対立が緩和されたのですが、ブランデンブルク・プロイセンの内部ではルター派とカルヴァン派(改革派)が厳しく対立し、これが侯国の宗教政策の主たるテーマになっていました。戦争中いったんは収まっていた対立が再燃してきたので、選帝侯は1662年、両者の対話を仲介、64年には寛容令 Toleranzedikt を発布し、両者の対立を収めようとしています。


Johann Stridbeck: Vor dem Leipziger Tor, 1690

さて、大選帝侯の手がけた改革、成し遂げた事跡を検証すると、ブランデンブルクはフリードリヒ・ヴィルヘルムの代になって従来から結びつきが強かったオランダとの関係がより緊密になったことがわかります。選帝侯は皇太子時代、4年間ネーデルラントに遊学し、即位後の1646年、オランダ総督の娘、ルイーゼ・ヘンリエッテと結婚。土地造成や都市造営の面だけでなく、選帝侯と侯妃は多くの芸術家を招聘、多くの美術品を購入し、宮殿の装飾もオランダ風に染めていったのです。

二重都市ベルリン/ケルンはシュプレー川がいくつもの支流・細流を作って蛇行し、無数の沼沢を形成している砂地に形成された都市でした。地盤が砂地・沼地で建築の困難な土地で、旧市街でも新しく開発した市街でも、建物の建築には苦労が伴ったのです。地下水位もミューレンダム Mühlendamm ができるまでは1~2mだったと言われています。大選帝侯の時代にネーデルラントと関係が深まったことは、それが灌漑や干拓の先進国だったことで大変好都合でした。多くの土木技師を招聘できたのです。もちろん首都の要塞化も彼らに負っています。


ベルリン郊外の風景

このころの風景を描いた絵画を見るとベルリン周辺のいたるところに風車が立っています。
* 一般税からアルコール、塩、種物、家畜、パン、手工業品が除外されたので、都市だけの負担となる。市門で軍が課税に当たる。貴族への課税を貫徹させたのは軍人王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世の時から

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