Top > Nachlasse > Berlin > Berlin-11

リンデンの並木  ベルリン物語 -11-

三十年戦争で荒廃した首都の再建にあたってオランダ流が取り入れられますが、宮殿そのものの改築ばかりでなく、宮殿北西の「犬橋」と御猟場ティーアガルテンを結ぶ並木道にその顕著な装いを見せます。
1646年から宮城北側ルストガルテン(1573 造営)の改修が始まり、半ば砂地半ば草やぶとなっていた庭園を新たに作り直しました。北端は植物園にして外国産の珍しい植物を多く集め、その中にはチューリップなどの花卉のほか、ブランデンブルクでは初めてとなる(ヨーロッパに初めてもたらされたのは1570年ころ)ジャガイモも含まれていました。


Lustgarten

宮殿改修の棟梁に任命されたメムハルトによりルストハウス、バルハウスが建築されました。以後、続々と技師・建築家が招聘され、火災で焼失した王室厩舎の新築などにあたったのです。ほとんど使えない状態だった木製の「長橋」もオランダ風に作りかえられました。宮殿の改築も進んで「石膏の間」と外部壁面が新しくされました。

* * * * * * * * * *

ベルリンは西へ拡大してゆきますが、その先駆となったのが宮城と御猟場を結ぶ並木道の造成だと言えるでしょう。オランダの造園家M・ハンフ Michel Hanff は「犬橋」(1573 架橋)からティーアガルテンまでに「1000本のクルミと1000本の菩提樹」の6列並木の「ガレリー(歩廊)」を提案。かくして、将来のベルリンの都市像を決定付ける道路工事がスタートしました。後にベルリン随一の目抜き通りとなる「ウンター・デン・リンデン」の誕生です。


Johann Stridbeck: Unter den Linden, 1690 (*)

これによりベルリンの軸線が引かれました。ほぼ東西ですが、約5度右上がりとなります。時計の長針で言えば、15分ではなく14分くらいです。旧市街の軸線は約30度の右上がりでしたので、都市拡大には新旧市街の接続に工夫が凝らされることになります。

初めのころには並木の中央に豚を放す農民が多かったようで、1690年、「植樹した木を豚に齧らせないよう」との選帝侯のお触れが出たりしました。しかし次第に道の北側は市民の、南側は官吏の建物が建って、首都のメインストリートへと成長してゆきます。
* 注:並木は何列か?
レッシュブルクの「ウンター・デン・リンデン」Löschburg, Winfried: Unter den Linden.(1971) では「1685年から91年の間に、理由不明ながら菩提樹の並木が6列から4列に変更された。1699年に再び6列になった」とある。19世紀後半のある書物には「通りは4列の並木で分けられ」と記述されている。現状は4列に見えるが、並木の変遷についてはもう少し詳しく調べる必要がある。

← rückwärts   ↑ Index-Seite   → vorwärts