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市街地の整備と移住民  ベルリン物語 -12-

ベルリンの街並み、そこでの日々の生活はどうだったのでしょうか。そのころ市営のレンガ焼き窯が作られて、レンガ作りの建物も徐々に増えつつあったが、いまだ大半は木材と土で、藁か葦か板葺きの屋根に土製煙突で切妻の建物であった。住居と仕事場、物置、場合によっては家畜小屋も一つ屋根の下にあった。道路は未舗装か、せいぜいぐらぐらする石敷きで、家並みに沿った排水路に汚水を流していた。

建物は平屋か二階建て、裕福な家は室内を白で塗装し、浴室までもあった。二階建ての場合、通常、一階に台所、廊下、居間、二階は寝室で、天蓋つき(これは防寒のため!)ベッドが備わっていた。地下室にビール、ワイン、バターなどが貯蔵された。鉄製または陶製のストーブが用いられ、壁に据付の鉄製燭台にろうそくが立てられていた。貧困者の住む小屋は建物の背後、裏庭に建っていた。

選帝侯はオランダ流の舗装された清潔な道路、石作りの建物、街灯を求めた。規制を強化し、それまで道路に小屋を置いて豚を飼育する光景はよく見られたがこれを禁じた。マルクト(市いち)に商品を並べた農民には必ずごみを市外に持ち帰るように命じた。住民に道路清掃の義務を課す。ごみがたまると、道路清掃人が費用を受け取って車に乗せて市門の外へ運び出す。選帝侯は道路清掃人に糧食と馬を与えて宮殿、市庁舎のごみも処理させた。清掃人は毎土曜日鐘を鳴らして巡回。マルクト広場とか教会墓地にごみを捨てるものはさらし台を覚悟しなければならなかった。違反行為を防ぐためにも夜警が巡回した。マルクトに固定式の屋台は出させない、つまり毎回片付けさせる。いい場所を取り続けることの無いよう、毎回くじを引く。


Alt-Berlin (rot gefärbt) auf einem Stadtplan von 1688 (Wikipedia.de)

町を火災から守るため1660年、防火に関する命令と街路・井戸に関する命令を発した。当時ベルリンとケルンには380の個人用と52の公共の井戸があり、王宮にだけ給水塔を利用した流水があった。新しい命令によって井戸は清潔に保たれねばならず、個人用の井戸も手入れを怠ると10ターラーの罰金。公共の井戸を汚したものは費用弁済だけではなく、これもさらし台行きの恐れがあった。井戸の傍らには防火用バケツを置かねばならなかった。建物の所有者は井戸の管理人に任命された。公共の井戸が不足していたので新しい井戸を作らせた。

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領地の人口を増やし産業を振興する政策が多くの外国人を受け入れることにつながった。各国で宗教・宗派の違いで弾圧され追放される人々が続出していたが、これを大量に受け入れた。1685年10月、ルイ14世がナントの勅令を廃止すると、大選帝侯は即座にポツダム勅令を発して新教徒の受け入れを表明したので、フランスから大勢の亡命「ユグノー」が移住してきた。

当時配布されたパンフレットには「・・・領内いずこで営業するも可、輸入関税は免除される、居住地に空き家があれば無償で譲渡する、家を建てるなら建築用材を無料で提供する、公租公課は長期に免税される、事業には存分に助成金を出す、独自の行政権、裁判権を認める、フランス語による礼拝の権利を承認する、司祭も選任できるし、その俸給は選帝侯が支払う、フランス貴族はドイツ貴族と同等に遇され、士官は侯国でも同じ地位が保証される」等々の文言があった。裕福なイギリスやオランダなどと張り合うため、好条件を提示したのだろう。

数ヶ月で3万人のフランス人がドイツ帝国領に入り、うち2万人がブランデンブルク・プロイセンへ、そして人口12000人のベルリンに4000人が移住してきた。ユグノーには法律家、医師、軍人、職人などの裕福な市民が多かった。大きな規模で製品を作るフランスの職人がベルリンを変えた。それまでのぜいたく品が安く入手できるようになった。

手袋、造花、金刺繍、モール、ボタン、レース、帽子、時計職人、金細工視、彫版師、壁紙。室内の明かりには魚油に代わってろうそくが用いられるようになった。食べ物では、白いパン、豆、カリフラワー、アスパラ、アーティチョークなどが持ち込まれた。1688年には賃貸の乗り物(日本の駕籠のようなもの)も登場し、それが「リンデン並木道」の散策にも用いられた。在来のルター派住民とカルヴァン派フランス人との利害の対立を抱えながらも、文化先進国からやって来たユグノーがベルリンの都市文化に及ぼした影響は計り知れないものがある。


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