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クンケルの赤色ガラス  ベルリン物語 -13-

「科学革命」と呼ばれるヨーロッパ17世紀の目覚ましい科学の進歩、世界像の転換に取り残されていた感のあるベルリンだが、世紀末になってようやく遅れを取り戻そうとする気運が見え始めた。医学・植物学の分野ではメンツェル Christian Mentzel がヨーロッパ中を実地に旅して知見を広め、選帝侯の侍医となってからも各地の学会と密接な情報交換を維持しながら研究を進めた。

法学・歴史学の分野ではライプチヒ、イェーナ大学で神学と法学を修めたプーフェンドルフ Samuel Pufendorf がグローティウスの流れを受けた自然法の理論を発展させた。二十九歳でハイデルベルク大学の教授に就任、1667年はスウェーデン国王カール十一世(まだ幼く摂政制の時代)の招聘でストックホルムに赴任して、『自然法と国際法』など彼の主要な著書を著した。1688年からブランデンブルクの修史家としてベルリンに招かれた。

科学技術の分野で注目すべきはクンケル Johannes Kunckel (1637/1642 - 1703) であろう。自然科学が中世の魔術的自然哲学から脱していない時代のことなので、後世においては彼は科学者としての業績が認められる一方で錬金術師とも呼ばれる。その生年も確定せず、経歴や事跡も文献によりさまざまである。以下は各種の事典、またベルリンの郷土史から「大選帝侯の錬金術師ヨーハン・クンケルに関する新旧の所見」S. K. von Stradonitz: Altes und Neues von Johann Kunckel, Alchymisten des Großen Kurfürsten. (1915) などを参考にした。


„Ars Vitraria Experimentalis, oder Vollkommene Glasmacherkunst", 1679

クンケルはレンツブルクの精錬・ガラス製造技師の家に生まれ、薬学・化学を修めてザクセン・ラウエンブルク公国の宮中薬剤師になった。その後ヴェネチアやムラーノに赴いて最も進んだガラス製造技術を学び、1667年にザクセン選帝侯国に迎えられた。時の選帝侯ヨハン・ゲオルク二世は三十年戦争で荒廃した経済の再建に努力したが、一方でドレースデンにバロック様式の豪華な宮殿、庭園、オペラ劇場などを建てて財政破たんを招いた君主である。クンケルが千ターラーという相当な年俸でドレースデンに迎えられたところをみると、どうやら錬金術師として期待されたようだ。

1670年ころにハンブルクのヘニッヒ・ブラントという人物が錬金術の実験の一環で、「賢者の石」探求途上、尿から硫黄を精製したという情報を得て、彼は同じ試みを行い成功した。1678年にこれを „Oeffentliche Zuschrift, Von der Phosphoro mirabeli und dessen leuchtende Wunder-Pilulen …" として発表した。

なかなか「金属変成」の成果を出さないのでザクセンに居づらくなっていたところへ、ブランデンブルクから招聘の話が来た。「大選帝侯」フリードリヒ・ヴィルヘルムはクンケルの錬金術方面の知識に無関心ではなかったが、三十年戦争後の経済振興策に取り組むにあたって輸出商品の一つとしてガラス器に着目したのであった。1679年、「枢密侍従」Geheimer Kammerdiener に登用され(年俸500ターラー)、ポツダムに近いハーフェル川の中州「孔雀島」Pfaueninsel (*) が与えられた。そこにガラス工房が作られるのだが、これはヴェネチア、ボヘミアに次ぐ第三のクリスタルグラス製造所と言われる。この、外部と遮断された場所でゴールデンルビーグラス Goldrubinglas と呼ばれる美しい赤色ガラス(**) が作られた。


黄金ルビーグラス。中央の蓋つき杯がクンケル作とされている。(Wikipedia.de)

このころ „Ars Vitraria Experimentalis, oder Vollkommene Glasmacherkunst" (1679) という著書も出版された。ほとんどイタリア人アントニオ・ネリの著作の焼き直しであったが、この書は版を重ね、ヨーロッパのガラス製造技術の発展に大きな寄与をした。彼は理論の研究よりも実際の生産技術に優れていたのである。

だがクンケルはベルリンに落ち着くことはなかった。1689年、ガラス工房が火事で焼けたり、あるいは選帝侯との関係がぎくしゃくしたのが直接の原因だろうが、ともかく一所不住の人間だ。 1692年、スウェーデン王カール十一世の招聘を受けストックホルムに向かう。折から財政立て直しのため鉱工業の振興に努めていたスウェーデンで、彼は銅製造の分野で貢献して貴族に列せられ、Johann Kunckel von Löwenstern という立派な称号を名乗ることになる。いかにもこの時代らしい風雲児ではあった。

「ベルリンはいまや学問芸術の拠点です」とライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz が書いたのは1697年のこと、これはベルリンにアカデミーを設立するにあたって、その初代総裁にとの名誉ある招聘に対する返信中の美辞で、学問芸術の拠点と呼ぶにはいまだ程遠かったと言うべきであろう。
* Pfaueninsel は当時は「ウサギ島」Kaninchenwerder と呼ばれていて、ウサギの飼育場として使われていた
** 赤色ガラスの製造は通常では難しいとされるが、特殊な薬剤を用いて赤く発色させることは古代から知られていた。ただ、美しく透き通る明るい赤色を発色させるのは困難であった

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