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建てよ、殖やせよ!  ベルリン物語 -15-

第二代プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世は派手好きで浪費家であった父王とは対照的な、徹底した倹約家(*)として知られる。華美奢侈の風を一掃し、宮殿北側の美しい庭園を錬兵場に変えるなど、その謹厳実直ぶりから軍人王(兵隊王)Soldatenkönig と呼ばれるが、この王が軍隊の増強に劣らず力を入れたのは王国首都の整備であった。

ますます増えるユグノー移住民のためには、1718年、ティーアガルテン北のシュプレー右岸にコロニーを設け、ここはモアビートと呼ばれるようになった。フリードリヒ・シュタットは現在のシャドー通りとマウアー通りを超えて西に拡張され、ウンター・デン・リンデンの西端に四角形のパリ広場、ライプチヒ通りの西端に八角形のライプチヒ広場、フリードリヒ通りの南端には円形のロンデル広場(現在はメーリング広場)が配置された。それらを結んで少し「くの字」形に曲がった道路が敷かれ(国王の死後ヴィルヘルム通りと名付けられた)、その外に新しい市門・市壁が建造される。

もともと先代王の時から、道路と区画のみあって空地と空家の目立っていたフリードリヒ・シュタットに、さらに、やたらと広い空地が生まれたのだった。これでは王都としての威容を誇示できない。フリードリヒ・ヴィルヘルムは1721年に建築を促進するための特別委員会を作った。担当部局には毎年200戸の建築を進めるよう命じた。王は「鋼の意思で奮闘し、必要とあらば軍曹の杖を手に市民に家屋建築を強制した」(オズボーン『ベルリン』(**) 土地を所有しながら空地のままに放置することは許されなくなった。逆に、個人で家を建てると申し出た市民には、土地はもちろん建築資材まで無償で提供された。

建物の間口の長さに応じて支給される金額が決められた。そのためフリードリヒ・シュタットには「妻入り」の建物は無く、棟の稜線が道路と並行する「平入り」の低層(2階建て)の家が並ぶこととなる。しかも各戸が灰色の壁に白い窓枠(「ブランデンブルク流の塗装」と呼ばれた)まで同じなので、まっすぐな道路の左右に一列の長い建物が延々と伸びているようにしか見えない。よそ者は訪ねる家を間違えることがよくあるほどで、単調で無粋な家並みと嘲笑されることしばしばだが、「それは極めて不当。ここには、今日では残念ながらほとんど忘れ去られた重要な原理、都市の通りは個々の建物が出しゃばるのではなく、通り全体の印象を乱さないという原理が生きている」(上掲書)という見方もある。

臣下の面々は、忝くも新市街に地所を下賜されたらどうしようと戦々恐々の有様だった。賜った土地には自己資金で建築することが強制されたからだ。このあたりはもともと沼沢地だったので、場所によっては何本もの杭を深く打ち込んだ上に建てねばならなかった。多額の費用を負担して家ができても借り手が見つからず、売ろうにも買い手はいなかった。官僚に移住を促すため、フリードリヒ・シュタットの南地区、マルクグラーフェン通り南端に裁判所を建てた。


Plan von Berlin im Jahr 1737 (Wissenschaft in Berlin, 1987)

かくて兎にも角にもベルリンは絶対君主の威光を示すバロック都市の姿を完成させてゆくのだが、上の地図(南北が逆)でわかるように、せっかく築いた環濠城塞はすでに軍事的な意味を失って、むしろ町の成長を阻害する要素となりつつある。新市街地を囲む新しい市壁と市門は防護施設ではなく、市への人の出入りを監視し、流入する物資に課税する税関施設となったのである。
* この王にしても例外的に贅沢をしたところがある。「クール便 Eiswagen」参照。
** Max Osborn: Berlin (Berühmte Kunststätten Band 43, 1909)

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