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フリードリヒのフォールム  ベルリン物語 -16-

フリードリヒ二世(大王、在位1740~86)は首都ベルリンにプロイセン王国の威容を示すアーキテクチャーとして壮麗な建物群を廻らせた広場を構想した。いわゆる「フリードリヒ広場」、フォールム・フリーデリキアーヌム Forum Fridericianum である。

下の地図は18世紀の初め。前の世紀後半に24年の歳月を費やして首都を囲む環濠城塞を完成させたが、いまはベルリンは西へと拡張し、ドロテーエンシュタットに続いてフリードリヒシュタットが造成され、新市街には新しい市壁が築かれている。王宮ルストガルテンと新市街の間、ここは城塞建設によって生まれたフリードリヒスヴェルダー地区だが、ツォイクハウス(武器廠)の建設工事が行われている。後にベルリン一美しい広場と呼ばれることになるジャンダルメン・マルクト Gendarmenmarkt は、その誕生時の名称「リンデン・マルクト」と記されているが、すでにフランス教会とドイツ教会が建っている。


Berliner Stadtplan 1710 (Aus: Wikipedia.de)

次は大王が就位した1740年頃の状況(地図の上下を逆にしてある)である。ジャンダルメン・マルクトは「ミッテル・マルクト」と記されている。西側市壁に沿ってすでに「四角広場」と「八角広場」が作られている。35年の歳月を費やしてようやく1729年に完成したツォイクハウスがその威容を見せるが、王宮と新市街のメインストリート、ウンター・デン・リンデンの間の城塞はいかにも邪魔な存在となっている。


Berliner Stadtplan 1740 (Aus: Wikipedia.de)

新市街の建設に伴って旧市街と新市街の間の土手は少しずつ崩されていたが、フリードリヒ二世は無意味で邪魔になった城塞の土手を撤去し濠を直線水路に直して(現在は Oberwallstraße と Niederwallstraße という名に往時の記憶を残している)、王宮とウンター・デン・リンデンとのジョイント部分を宮殿、オペラハウス、図書館、教会などで取り囲む広場を作ろうとしたのである。建築家に作成させた計画図にみずから修正の手を入れた図面も残っていて、広場建設にかける王の熱意が伺える。

最初に文化と社交の中心となるオペラ劇場、続いて1747年にカトリックの聖ヘートヴィヒ教会が着工の運びとなった。ハインリヒ王子宮殿はそのあとに着工、66年に竣工した。聖ヘートヴィヒ教会が完成したのは1773年。ジャンダルメン・マルクトの両教会は改革派(カルヴァン派)とルター派の教会でいずれもプロテスタント、王の宗教的寛容の政策からカトリック教会を建てさせたとされる。ローマのパンテオンをモデルにしたとも言われるが特徴のある円形の建物だ。シュレージエンを併合してカトリックの人口が増えたという事情もある。

初めこそ壮大な構想の実現に真剣にとりくんだが、オーストリア継承戦争から七年戦争へと相次ぐ戦役で長期間首都を離れ、戦後は王の関心はポツダムのほうに移る。そこには夏の離宮として「サンスーシー」(無憂宮)を建てていたが、新たに大規模な宮殿を作り上げるのである。ベルリンの広場は中途半端なまま残された。

下は大王没年(1786年)と19世紀初頭の状況を示す。フォールム・フリデキアーヌムは「オペラ座広場」 Platz am Opernhause と記されているが、略した「オペラ広場」 Opernplatz 名で市民に親しまれた。ナチス時代にはここで「非ドイツ的図書」の焚書が行われたという忌まわしい歴史があって、今はベーベル広場 Bebelplatz と命名されている。ハインリヒ王子宮殿は現フンボルト大学、戦災で大きく破損した王立図書館は再建されて大学法学部が使用しているが、その湾曲したファッサードから市民からは「コモーデ」(整理箪笥)と呼ばれている。


Berliner Stadtplan 1786 (D.F.Sotzmann, Aus: Wikipedia.de)


Berliner Stadtplan 1804 (Aus: Berliner Heimat 1959.2)

空から見た景色。リンデン並木と広場の間にフリードリヒ大王の騎馬像が見える。即位100周年にあたる1840年から製作が始まって最終的に完成したのは1851年のことである。


Das Forum Fridericianum im Berliner Stadtbild 1850 (Aus: Wikipedia.de)


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