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三月革命  ベルリン物語 -18-

ウィーン会議の結果、フランス革命以前の君主制に戻し、大国の勢力均衡を図る「ウィーン体制」がヨーロッパの秩序の柱となった。メッテルニヒの主導でフランス、スペイン、ナポリにブルボン家の王朝が復活し、神聖ローマ帝国に代わる「ドイツ連邦」が作られた。市民は「ビーダーマイヤー」と呼ばれる平凡で穏やかな日常を過ごす。とはいえ、この「復古主義」は産業化の進展がもたらす社会の地殻変動に激しく揺すぶられることとなる。各地に大きな工場が建てられ、煙突が林立するという光景が出現し始めたのである。

1835年、ニュルンベルク-フルト間にドイツ最初の鉄道が開通し、急速に鉄道網が整備される。1838年にはベルリン-ポツダム間も開通した。ルール地方の炭鉱町エッセンで小さな町工場を営んでいたクルップ家が、鉄道車輪の製造で発展の土台を築き、やがて武器製造にも乗り出し、プロイセンを代表する重工業企業となる。

1847年のボルジッヒの工場 →
(Aus: Wikpedia.de)

ベルリン市内でも1937年にボルジッヒがヴェディングで蒸気機関車を製造する工場を建てた。電信機製造から電車製造へと発展したジーメンス (1847)、機関車製造のシュヴァルツコップ (1852)、製薬のシェーリング (1864)、電気製品の AEG (1883) が続く。こうして経済力を蓄えた裕福な市民層が、硬直した貴族政治を打破しようと、政治にも影響力を及ぼしていく。

富裕市民層の要求は最初、自由とドイツ諸国の統一を求める学生たちの運動と協調しているかのように見えた。工場主たちにとって1834年発足のドイツ関税同盟は経済面でのドイツ統一であった。しかし、立憲王政を求めるリベラルな市民層や高級官僚に対して民主制を求める学生、手工業者、農民との対立がくっきりしてくる。さらに民主派の中でも貧困な都市労働者が一段と過激な運動を展開する。旧体制の国々の政府は神聖同盟、四国同盟らの列強を中心に、自由主義・国民主義運動を抑圧した。

時代はまさに首都ベルリンの工業化が急速に進むときであった。ベルリン市を取り囲む関税市壁が撤去される。40年代の後半にはベルリンの人口は、新しく開けた周辺地区を含めて40万人に達した。その中の40%が公的な保護が必要な貧困層であった。 都市労働者は14時間労働を強いられ、日曜日も休めなかった。女性も子供(*)も働かねばならなかった。

1840年、優柔不断で強圧的と言われた先王の長い治世が終わって、フリードリヒ・ヴィルヘルム四世が即位したとき、はじめは大きな期待を持って迎えられた。新王は、王室は福音派だがルター派に対する抑圧をやめさせ、カトリックに対しても融和的でケルン大聖堂建築再開を支援した。憲法の破棄を宣言したハノーファーの新国王に抗議してゲッティンゲン大学を追放されたグリム兄弟をベルリン大学に招聘するなど、自由主義の理解者であるという姿勢も見せた。

憲法制定を求める学生・市民の運動は盛り上がりを見せるが、フリードリヒ・ヴィルヘルム四世はそれを拒否した。王によれば、「君主の人民に対する関係は信頼と愛情によるのであって、紙に書かれた憲法に規定されるべきものではない」という発想。しかし勢いに抗せず憲法制定のための議会開催をしぶしぶ認める。このロマンチックな君主に対してはじめはベルリン市民も持ち前のユーモア(**)で接していたが、王と市民の対立は日に日に厳しくなっていった。

1848年2月、パリの民衆の反乱、国王の亡命、臨時政府の成立というニュースが伝えられる。3月13日ウィーンの革命勃発、メッテルニヒのイギリス亡命という事態に刺激されて、3月18日、ベルリン宮殿広場で大集会が開かれた。国王は出版の自由を認め、第2回の議会開催を告知する。圧力に屈してこのような宥和政策を打ち出したが、しかしもはや民衆の武装蜂起を抑えることはできなかった。

← März 1848 in der Breiten Straße in Berlin
(Aus: Wikpedia.de)

宮殿前広場の集会は初めは平静に行われたが、読み上げられる布告の中で、軍の撤退という要求には一切触れられていないため群衆の中から抗議の声が上がった。それは次第に大きく激しくなり、警護の兵士がサーベルを抜いたり、歩兵部隊のところで発砲があったりした。群衆は近辺の道路に散ってバリケードを築いた。革命の勃発である。へんぽんと翻る黒・赤・金の三色旗は、解放戦争のおり一部隊が用いたのが始まりとされるが、戦地からの帰還学生が中心となったブルシェンシャフト(学生組合)に受け継がれ、ドイツ統一を求める運動のシンボルとなったものである。

この日のバリケードまた路上の戦いで約300人の犠牲者が出た。下の地図の赤い印がバリケードの箇所を示す。


Barricaden (Aus: Illustrierte Geschichte der deutschen Revolution 1848/49
Dietz Verlag Berlin 1988)

激しい市街戦が続く中(3月18/19日の日付で)、国王は《親愛なるベルリン市民へ!》なる布告を発して前日来の騒動を一部の悪党の仕業とし、軍は限られた場所に短期間駐留するだけ、と懐柔を図った。もちろんそんなもので収まるわけがなく、結局、市民の武装を認め、軍隊を市内から撤退させるなど、大きく譲歩したのである。だがそれから半年余りたった10月末、ウィーンで皇帝軍が総力を上げて革命を鎮圧したとの報せに接してプロイセン王も一転強気になり、11月、ヴランゲル将軍指揮下1万3千の軍をベルリンに入城させた。市民防衛隊は降伏、翌年7月まで全市は戒厳令下に置かれた。議会はベルリンから70キロ離れたブランデンブルクへの移動を命じられ、12月には解散させられた。議会側は「納税拒否」を呼びかけるのが精一杯の抵抗であった。

1849年3月にフランクフルト議会でドイツ帝国憲法が発布されたが、フリードリヒ・ヴィルヘルム四世は「議会の恩恵によって」帝位につくことを拒否。連邦を構成する各国も軒並みにこの憲法を不承認としたので、ついに国民主導によるドイツ統一は成らなかった。
* 1839年公布された、《工場における若年労働者の就労規定》によると、9歳以下の児童の工場労働は禁止され、16歳以下の若者は、1日最高10時間と制限された。ドイツ連邦共和国労働社会省「ドイツ社会保障の歩み」 参照。
** 町で「憲法パンケーキ」 "Konstitutions-Pfannkuchen" なるものが販売された。パンケーキの中は空洞であった。 Geschichten aus der Berliner Märzrevolution 参照。

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