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水と砂  ベルリン物語 -4-

ベルリン Berlin とケルン Cölln はシュプレー川の中州に生まれた集落で、もともと漁を糧とする人々が住み着いたところのようです。

19世紀後半に描かれた、1250年代ベルリンの想像画があります。シュプレー川に浮かぶ姉妹都市はこのような様子だったのでしょうか。古い文献にはケルン島、ベルリン島という表現も出てきますが、この絵で見るとまさに二つの島ですね。


Holzstich von F.Wittg, nach einer Skizze von E.Müller, 1882

左手前がケルン、右奥がベルリン、両都市を結ぶ Mühlendamm も見えています。Mühle という名のとおり、この堰には粉挽き用の水車が作られていたのですが、水流を遮り広い淵を作って漁業にも役立ったことでしょう。シュプレー川は大型船が航行できるほどの水深は無かったようです。
手前中央が当時5つあった市門の一つ、 Köpenicker Tor です。

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このあたりの地質は、ところによって20メートルを超える、ぶ厚く堆積した砂地だと言われています。基本的には卓上面のように平らなのですが、数メートルから10数メートルの砂丘 Düne がところどころに盛り上がっています。

1870年代に行われた地質調査(*)で、ケルンに1つ、ベルリンに3つの砂丘が存在したことが確かめられました。ケルンの「ペトリ教会」の建つところ、ベルリンでは「ニコライ教会」「"赤い" 市役所」「聖マリア教会」の建つところです。

「砂上の楼閣」という言い回しに親しんでいる私たちには首を傾げたくなる話なのですが、「ところ変われば "砂" 変わる」なのでしょう。のちに建築中から傾き始め、ついに撤去に追い込まれた「ミュンツ・トゥルム」建設をめぐる有名な事件(**)が起きますが、不運にもその場所の地盤が悪すぎたためでした。

ベルリンとブランデンブルクは砂に関する話題には事欠きません。
ブランデンブルク侯国は土地は貧しく、地下資源も乏しく「インクの吸取砂」しか産出しない国と嘲弄されていました。旅行者にとっても厄介な土地で、「ベルリンはアラビアの砂漠にある。東西南北どの方角から近づいても、砂の海をあえぎながら進むことになる」と、あるイタリア人旅行者は書き記しています(***)が、馬車は車輪が半分埋まってしまう有様だったようです。

キアウレーンは次のように述べています。
「ベルリンの大半の建物は大量の砂の上に建っているが、地面を少し掘ってみればおいしそうな黄色の明色の砂が出てくる。この美しくて清潔な砂の中に素足を埋めるのがベルリンの子どもの変わらぬ楽しみだ。以前は玄関を掃除する時の撒き砂に使ったくらい清潔なのだ(****)

この砂地がまた豊富な地下水を蓄えていて、おかげでベルリンの町は井戸から飲料水を賄えることにもなっています。
* Berliner Heimat, 1957 Nr.1, S.4
** de-Wikipedia Andreas Schlüter の項参照
*** W.Löschburg: Unter den Linden に依る
**** Kiaulehn: Berlin, S.18

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