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ベルリンの錬金術師  ベルリン物語 -7-

ブランデンブルクが新教に改宗してカトリックの修道会は解散させられました。ケルンにあったドミニコ会修道院の教会は選帝侯国の聖堂(ドーム)となる一方で、ベルリンにあったフランシスコ会修道院は研究・教育施設に変わっていきます。ここは修道僧の衣服の色から「灰色修道院」と呼ばれたと言われていますが、修道会が追放された後もこの名前は長く残ります。建物が接収されたあと、ここにはベルリンの科学史で逸することのできない人物、レオンハルト・トゥルンアイサー(*) Leonhard Thurneysser (1531-96) の実験室が置かれました。

L.Thurneysser (Günther Bugge: Der Alchimist)

スイスはバーゼル出身の鉱山技師にして高名なパラケルスス(**)の弟子と称する医師が、大学都市フランクフルト・アン・デア・オーダーで印刷させた著書が、エデンの園から流れ出す川の名前に因んで『ピソン』というものでした。ブランデンブルクの大小河川の水質、含有物、流域に埋蔵する鉱物について記述したもので、それによるとシュプレー川の水には金が含まれるとか、銅化合物を含む川、ガラス製造に適した砂を含む川、流域に明礬・硝石・硫黄がある川、深く掘れば琥珀の鉱脈に行き当たる土地などなど・・・「帝国撒砂箱」と揶揄されるブランデンブルク侯国はまるで財宝に満ち満ちた国のようでした。

これを聞いて時の選帝侯ヨーハン・ゲオルクは喜びました。何しろ万事派手好みの先君の36年に及ぶ放漫財政で、侯国は慢性的赤字に陥っていたからです。さっそく著者を引見し、一層その博学と多方面の才に感銘を受けた侯は、試しに、長らく病床にあっていかなる治療も効のないザビーネ妃を診察させ、宮廷医パウル・ルター(マルティン・ルターの息子!)の監視のもとに治療に当たらせると、不思議や突如快方に向かい、2週間で床を払ってしまったのです。すぐさま彼が宮廷医の一人として召し抱えられたことは言うまでもありません。

Pison (Günther Bugge: Der Alchimist)

先君ヨアヒム二世時代から、怪しげな実験に従事する連中に使わせていた「灰色修道院」の一画が彼に貸し与えられます。そこで最初に手掛けた仕事が尿を蒸留して行う病気診断法の出版でした。この、妃をはじめ数多くの貴人を<奇跡的に>治療した方法は評判を呼び、各地から「試料」を封印した容器が続々と届けられ、それぞれの診断に応じて用意された「黄金水」「真珠散」「珊瑚水」「紅玉液」などの高価な秘薬が飛ぶように売れ、財の基礎を築いたのでした。

著書は版を重ね、また新たな著作のアイデアが次々に浮かぶとなると勢い出版も自前でというわけで、修道院の一角にベルリン最初の印刷所が設けられます。これが見事な造本技術を発揮して、たちまちドイツ有数の印刷所となり、国内外から多数の注文を受けますが、最大の収益をあげたのが占星暦の刊行でした。何しろ書物などとは生涯無縁だった当時の庶民も暦だけは買ったのです。彼の暦は予言がよく当たるということで評判になりました。

庶民には大量生産の暦をあてがっておき、貴人には個人の誕生日・時刻をもとにしたホロスコープが注文生産されました。これで凶兆のある者には、さらに7種の金属を用いた修道院工房特製のお守り(タリスマン)が用意されて、これがまた収益に多大の貢献をしたのです。かくてここは尿検査、製薬、印刷、鋳造などの職人、事務係りなどで使用人200人を超える<企業>に成長しました。

こうして彼は莫大な財産を作り王侯貴族並みの生活をするようになりましたが、市民の間で悪魔と結託した魔法使いだとの噂が広まり、司法関係者も疑いの目を向け、教会も占星暦を異教的迷信と問題にし始めます。故郷バーゼルに財産の多くを移していたのですが、これも三度目の妻との離婚訴訟がもつれて市当局に差し押さえられ、結局財産のほとんどを失って、1584年にベルリンを去るのでした。

トゥルンアイサーは天文学、医学、化学、植物学から、地誌、歴史、言語学(***)にいたる広い関心を持ち、常に新しい分野に探求の目を向けていた点でまさにルネサンスと17世紀科学革命の中間に位置する学者だったと言えるでしょう。鉱山技術やガラス製法の改良では功績が大きく、プロイセンの科学史などでは必ず名前が出てきますが、E・T・A・ホフマンが『嫁選び』に金細工師レオンハルトとして登場させて以来、文学の世界でも無縁でない人物になりました。

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「灰色修道院」は、トゥルンアイサーが活動している時期に、新しく設立された(ルター派)ギムナジウムの校舎に定められます(トゥルンアイサーは教会堂聖歌隊席の修復費を寄付しています)。学校名は本来「ベルリン・ギムナジウム」 Berlinisches Gymnasium ですが、初めは単に「新学校」 Neue Schule と呼ばれ、17世紀には「灰色修道院ギムナジウム」、あるいは単に「修道院ギムナジウム」 Kloster Gymnasium の名称が一般的になりました。


Das Graue Kloster um 1860 (aus: Krammer)

教会の左側にある建物が18世紀の後半に新しく建てられたギムナジウムの校舎です。ここは彫刻家シャードー、神学者シュライアーマッハー、建築家シンケル、政治家ビスマルクなど多くの逸材を輩出しています。「ドイツ体操の父」ヤーンはこの学校で学び、後にこの学校の教師となるなど、著名な名前に事欠きません。
教会は第二次大戦末期、1945年4月の空爆で破壊されました。現在はその廃墟が緑の芝生の中に保存されています。
* 彼については、世界幻想文学大系41『現代イタリア幻想短篇集』の月報で詳しく紹介したことがある
** Paracelsus(1493ー1541) スイス人医師で、ルネサンス期を代表する自然哲学者。バーゼル大学教授の地位を追われて放浪の生活を送り、魔術師として多数の伝説を生んだ。
*** 彼は32か国語に通じていると豪語していた

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