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城塞都市ベルリン  ベルリン物語 -9-

大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムが命じた首都の城塞化工事は 1658年から1683年まで24年の歳月を費やして完成しました。毎日4000人に及ぶ人数が動員されたと言われています。高さ8メートルで上部の厚さ6メートルの壁が町を取り囲み、13か所に稜堡が突き出しています。「函館五稜郭」にならって呼べば「ベルリン十三稜郭」となるでしょうか。壁の外側は深い濠がめぐらされ、6つの市門が設置されます。


1660年ころのベルリン Lindholzscher Plan

城塞工事が始まって間もなくの地図ですから、町の現況に城塞の完成予想図が組み合わされています。宮殿北側の庭園は大きく削り取られます。ケルンの外側(稜堡1から4の部分)に新しい中州が生まれ、これは城壁完成の暁に第3の市「フリードリヒ・ヴェルダー」 Friedrichswerder になります。

この地図には、新市域はまだ区割りが記されているだけですが、ケルンとベルリンには建物の敷地も書き込まれています。裕福な市民や官吏のものと思われる大きな地所とともに、当時「小屋」 Bude と呼ばれていた小さな庶民の土地も丁寧に描かれているので貴重な資料となっています。

これだけ詳細な地図でありながら、なぜか Lange Brücke が欠けていますが、うっかりミスだろうとされています。次の地図は、この25年後です。

 

1685年ころのベルリン

こちらは城塞が完成したベルリンの地図です。この地図を作製したラ・ヴィーニュ La Vigne (Lavigne) について詳細は不明ですが、城塞完成の直前に働いていたユグノー(*)の技師ではないかと想像されています。この工事と並んで、シュプレー川とオーダー川を結ぶ運河(**)も掘削され、ベルリンはさらに交易拠点としてのウェイトが増しました。

完成したばかりの城壁の西側に新市「ドロテーア・シュタット」 Dorotheenstadt の建設が進んでいます。後のメインストリート「ウンター・デン・リンデン」 Unter den Linden となる菩提樹の並木道もはっきりとその形を見せています。都市ベルリンは西へ西へと拡大していきます。実は、工事が完成するころには戦具・重砲の発達により城塞は防御施設としての意味を失いつつあり、むしろ町の発展を邪魔するものとなり始めていたのです。
* フランスの新教徒。ナント勅令の廃止 (1685年) により多数が国外に逃れた。
** 1662-1669, Friedrich-Wilhelm-Kanal

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