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テクスト? テキスト! tekusto? tekisto!



昔は、インキ(丸善インキ、アテナインキ)、テキスト、エキストラ、エキスプレス、マキシマム、マルキシズムと言い慣わしていたモノが、今ではインク、テクスト、エクストラ、エクスプレス、マクシマム、マルクシズムとなった。

チンキ(ヨードチンキ、赤チンキ)などは、名前がチンクに変わるまでに、もの自体が消えていったのではないか。小林製薬の「タムシチンキ」は今も売られているが、以前ほどのポピュラリティはないだろう。(「パイロットインキ」の社名、製品名は健在なようだ。)

ステッキとスティック (stick)、ジャッキとジャック (jack)、ストライキとストライク (strike) など、キとクが違えば指すものも違うように、テクストとテキスト (text) も時代が進んで意味が分かれてきたと言われるが・・・
つまりフランスの記号論や構造主義以降の文脈で用いられるときにテキストはテクストと表記されるようになってきたと言う。たしかに私の印象でも、ロラン・バルトの諸作品の翻訳が出るようになってから、特に『テクストの快楽』あたりからの気がする。これはみすず書房から1977年に出版されたので、それ以降か。なんだか誰もがテクスト、テクストと言うようになった記憶がある。

なぜそうなったのか。英語 text がフランス語では texte だから、という理由でもあるまい。手元の辞書では音標文字でそれぞれ [tékst] [tɛkst] とあるが、「キ」を「ク」に変えるほどの違いがあるとは思えない。「テクスト」という新しい表記によって、流行のフランス思想(ポストモダンだとかエクリチュールだとか脱構築などなどのフレーズが飛び交っていた)ではテキストが従来とは異なる意味合いを持つらしいということまでは感得されましたが。いまはそういう思想的コンテキスト(コンテクスト?)も曖昧模糊となってもっぱら「テクスト」が用いられ、教科書とかパソコン・ファイルの種類を意味するときだけ「テキスト」が使われる状況となっている。

わたしは「テキスト」墨守派です。なぜかと言えば関口存男の参考書でドイツ語を学んできたからです。関口存男『新ドイツ語大講座』の発音解説部分で、a, o, u, au のあとに ch がくる場合について「アハ」「オホ」「ウフ」「アオホ」とふりがなをふる、すなわち Dach, Koch, Buch, Bauch などをダハ、コホ、ブーフ、バウホとする説明のついでに、

しかし a の時は「ハ」というア音で,「オ」の時は「ホ」というオ音で描出するのには若干理由があります。それは och ならば,o と言った後に,その o の口恰好をそのままに残して息をかすらすのです。--平行した例で註釈しますと,たとえば英語の ink を,近頃の人は,正しいつもりでインクと言いますが,私達の頃にはインキと言ったものです。k は「ク」だ,「キ」なんて変だ,などと言うなかれ,それは笑う方がおかしい。インと言ったら,言った口は「イ」の恰好をしている。その恰好のままで k と喉の奥を弾いてごらんなさい,どうしたって「キ」みたいな音が出るじゃありませんか。それを,in と言った後に,わざわざ口恰好を u のように変えて,それから「ク」だなんて言うのは,だいいち英語の発音を知らない大馬鹿野郎のすることです。だから,「インク」は誤り,「インキ」が正しいのです。どうだ,モダンボーイ共!
  --関口存男『新ドイツ語大講座 』(三修社 1947)(3巻本を合本にして 1965)(関口存男著作集・ドイツ語学篇に収録 1994)

こんな威勢のいい啖呵を切られたら、誰も「テクスト」派にはなれない。
テと言ったら、口は「エ」の恰好をしている。その恰好のままで k と喉の奥を弾いたらどうしたって「ケ」か「キ」に近い音が出る。それを、わざわざ口恰好を u のように変えて、それから「ク」だなんて言うのは・・・やはりヘンでしょう。
本書の「序」で著者は、戦争をはさんで二十年も前の「独逸語大講座」にかわる新講座として改訂したと言っている。「序」の日付は昭和二十二年二月九日。この部分が戦後の改訂から加わったのか、もともとあったのか調べてないが「モダンボーイ」という言い回しは1920年代の「モボ・モガ」から来ていると思われるので、旧版からあったのかも知れない。ということは戦前からインク、チンク、テクストなどと書く人がいたのだろうか。

「ク」を含むカタカナ表記の外来語に関して、学生のほとんどが「わざわざ口恰好を u のように変える」病に罹っていることは、わたしがドイツ語教師としてしばしば教室で直面した珍現象の一つでした。「クラシック音楽が好きだ」とドイツ語で言わせると、Ich mag klassische Musik. と言えるのだが、Musik を「ムジーク」と発音して、自分の滑稽なひょっとこ口に気付かない。「ムジーキです。英語の music も ミュージックは可笑しい、ミュージッキと言え!」と何度叫んだことか。