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ペルリーンからベルリーンへ Von Perlin nach Berlin



『レーベレヒト・ヒューンヒェン』シリーズ(拾遺集「静けさの前の嵐」参照)で売れっ子作家となったハインリヒ・ザイデル (1842-1906) にはその出生から作家となるまでの半生を振り返った自伝『ペルリーンからベルリーンへ』Von Perlin nach Berlin (1894) がある。メクレンブルクの地方色豊かな風景の中で送った少年時代、技師として働いていた時のことなど、小説と同じくユーモラスな筆致で描いている。興味深いエピソードが満載なので、その中から何箇所か抜き書きしてみる。

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ドイツの寿限無 eine Menge Rufnamen

まずは出生のこと。父は1839年、メクレンブルクのシュヴェリーン Schwerin 南西にある小村ペルリーン Perlin の教会牧師に就任、1841年に結婚して、三十年戦争以前からあったという牧師館で新婚生活を始めた。この古い藁屋根の建物は時代にそぐわなくなって久しかったが、半年後、一転して領主館と見紛うような立派な赤レンガの牧師館が完成し、新婚の牧師夫妻はそこへ移った。
・・・ そしてそこで、1842年6月25日、私はこの世に生を享けた。奇しくもあのE・T・A・ホフマンが二十年前に永眠した日とぴったり同じ日であった。洗礼では、これがすでにわが家系の習わしとなっていたのだが長男としてハインリヒという名前が授けられたが、それ以外にも山ほどの名前が与えられた。すべてを一度に名乗りでもすれば、大平原を驀進する貨物列車のごとき光景を呈する。どうぞご自分でお試しあれ。ハインリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・カール・フィリップ・ゲオルク・エードゥアルト・ザイデル。
[...] und dort, am 25. Juni 1842, kam ich zur Welt, genau an demselben Tage, an dem zwanzig Jahre früher der alte E.T.A.Hoffmann die Augen schloß. Bei der Taufe wurde mir als dem ältesten Sohne, wie es nun schon Familiengebrauch geworden war, der Rufname Heinrich zuerteilt, jedoch erhielt ich außerdem noch eine Menge anderer, und wenn ich mit allen zugleich vorfahre, so macht es den Eindruck, als wenn ein Güterzug durch eine ebene Wiesenlandschaft dampft. Man prüfe selbst, wie es sich ausnimmt: Heinrich Friedrich Wilhelm Karl Philipp Georg Eduard Seidel.
こんな洗礼名ってありなのでしょうか? 間違えずに言うのは本人にも難しそうだ。
E・T・A・ホフマンの命日が誕生日という縁のためかどうか、ザイデルは生涯、ホフマンの作品を愛してやまなかった。

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死を想え memento mori

ハインリヒの父は生地の小都市 Goldberg で少年時代を過ごし、シュヴェリーンのギムナジウムに進んだ。そのころの父の様子はよく知らないのだが、好んで話してくれたおかしな話が記憶に刻まれているという。どのような話かというと、その地の政庁舎を建て替えるに際して地面が掘り返されたが、そこはかつて修道院の墓場であったので、たくさんの人骨が掘り出されたとのこと。
さてそれらは別の場所に改めて埋葬されたのだろうか・・・少なくとも一部はそうではなかった。

土掘りの人足たちから一組のメメント・モリ、すなわち二本の腕と頭蓋骨を4シリング(25ペニヒ)で買うことが出来た。父も多分にもれずこの気味悪い装飾物を入手してきて、暖炉の煙突のところに、メクレンブルクでは「筒」と呼ぶが、交差させた二本の骨とその上に頭蓋骨がぴたりと嵌まると分かってとても喜んだ。そこはこの死の装飾を常に目にすることのできる絶好の位置だというわけである。そのあと寝室へ入って、いつものように居間へ通じるドアを開けたままにした。月が皓々と照り、なかなか明るくて眠れなかった。しかしうつらうつらとなりかけたちょうどその時、隣室の大きな物音ではっと目が覚めた。ガタン、ガラガラと大音がして--ゴロゴロと響くや卒然と寝室の敷居に月光を浴びた頭蓋骨があって、父ににたりと笑いかけたのであった。
Man konnte von den Arbeitern ein Memento mori, zwei Armknochen und einen Schädel für vier Schillinge (25 Pf.) kaufen. Mein Vater erstand sich ebenfalls so ein grausiges Ornament und war zu Hause sehr erfreut, als er fand, daß sich die beiden gekreuzten Knochen mit dem Schädel drüber schicklich in die Ofenröhre(*) oder wie man in Mecklenburg sagt, "das Röhr" klemmen ließen, gerade in der Stellung, wie man diesen Todeszierat immer dargestellt findet. Als er nachher zu Bett ging, ließ er wie gewöhnlich die Thür zu seinem Wohnzimmer geöffnet. Der Mond schien hell und er konnte anfangs nicht davor einschlafen. Dann aber, als er eben eindrusen wollte, wurde er durch ein lautes Geräusch im Nebenzimmer wieder aufgeschreckt. Es krachte und rasselte dort mächtig -- dann ein anhaltendes Kollern, und plötzlich stand der Schädel im Mondschein auf der Schwelle der Schlafstube und grinste ihn an.
墓場から掘り出した人骨が売買されるとは知らなかった。髑髏と交差させた二本の骨とくれば、私たちはすぐさま海賊船の旗印を思い浮かべるが、これはもともとスペインの墓地の入り口を示す標章だったそうだ。図像としては中世フランスの danse macabre またドイツの Totentanz 「死の舞踏」に由来するといわれる。まさに「メメント・モリ」である。
* Adelung によると die Röhre in einem Ofen, besonders diejenige Röhre, durch welche der Rauch aus dem Ofen abgeführet wird. Ingleichen eine große viereckige blecherne Röhre in einem Stubenofen, mit einer Thür, Speisen darin warm zu erhalten. とある。すなわち、煙を排出する、あるいは料理を保温するための筒状部分のことらしいが、髑髏と骨をどのような形のストーブにどのように取りつけたのかよくわからない。
Antik Ofen Galerie というサイト (http://www.antik-ofen-galerie.de/) に古いストーブの写真が沢山ある。

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滂沱の涙 Ströme von Thränen

幼いころの読書について。ハインリヒ・ザイデルは早くから文字が読めるようになり、後にいろいろな人から「いつも椅子に本を置き、その前に膝をついて」本を読んでいたよと聞かされたとのこと。父は教会信徒のための文庫を作っていて、ハインリヒもその中から Karl Stöber: "Das Elmthäli"(*) とか Hebel: "Schatzkästlein"(**) そして民衆本 Volksbücher などを読んだことを憶えている。
しかし最も大きな感動を受けたのはある一つの物語だったが、妙なことに題名も作者も思い出せなくて内容もぼんやりとしか憶えていない。たしか幼い少女が乾草の中で窒息し、そのため母親が気が狂ってしまうというような話だった。おそらくこの物語を三十回は読んで、読む度にいつも胸がはり裂けるように悲しく涙をぼろぼろと流したものだ。
Die allergrößte Wirkung auf mich machte aber eine Erzählung, von der ich sonderbarerweise weder den Titel noch den Verfasser weiß und von deren Inhalt ich nur eine dunkle Vorstellung habe. Ich glaube, es erstickte ein kleines Mädchen im Heu und eine Mutter wurde darüber wahnsinnig. Diese Geschichte habe ich wohl an die dreißigmal mit immer gleicher wollüstiger Wehmut gelesen und Ströme von Thränen dabei vergossen.
ところが、この思い出を1889年に発行された雑誌 "Daheim" に書いたところ、当該書籍の書名・著者名を教示する手紙だけでも一ダースと送られてきたり、現時のペルリーン教会牧師からハインリヒが子供の時読んだのと同じ版が届けられるなど大きな反響があり、幼い日々に感動して繰り返し読んだ本に再び巡り合うことができたのである。
さらには著者の孫に当たる女性がこの小品、ゴットヒルフ・ハインリヒ・フォン・シューベルト『神にありて叶わざること無し』の第五版を贈って下さった。
Ferner schenkte mir eine Enkelin des Verfassers ein Exemplar der fünften Auflage dieses kleinen Werkes: "Bei Gott ist kein Ding unmöglich" von Gotthilf Heinrich von Schubert.
こうして念願の再読がかなったのだが、ありがちなことながら当時の感動は蘇らず、それどころか主人公が女の子ではなく少年であったと判明し、記憶の曖昧さにもショックを受けるのであった。

G・H・シューベルト (1780-1860) はロマン主義時代の医師、自然研究家で、1819年からはエアランゲン大学で「自然史」を講じ、1827年、ミュンヘン大学に招聘された。『自然科学の夜の側面についての見解』(1808) と『夢の象徴論』 (1814) によってE・T・A・ホフマンなどロマン派の詩人たちに絶大な影響を及ぼしたことで知られる。シェリング流の有機的な自然観をキリスト教的な宇宙体系に融合させた独特の宇宙像を構想し、それを講義するだけでなく、少年少女向けの物語としても発表しているので、『神にありて叶わざること無し』も(私は未読ですが)その中の一篇と思われる。
実はむかし、「G・H・シューベルトのロマン的世界像」(『同志社外国文学研究』第10号 1975)なる論文を書いたことがあるので、懐かしくて、このくだりを引用した次第です。(^_^;)
* Karl Stöber (1796–1865) は牧師で郷土作家。この作品を探してみると、ある古書店の目録に、Das Elmthäli. Nebst weiteren Erzählungen. があって、Stuttgart, J. F. Steinkopf'sche Buchhandlung, 1842., 1842. 8°. 100 S., 2 Blätter. Halbleinen der Zeit. 云々と記載されている。
** Johann Peter Hebel (1760-1826) の代表的な「暦物語集」である Schatzkästlein des rheinischen Hausfreundes. は1811年に出版された。
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非行グループ Bande von rohen Gesellen

ハインリヒ・ザイデルは11歳でシュヴェリーン・ギムナジウムの第五学級 Quinta に入った。入学時は学級で最年少、ということは出来の良い生徒だったのだがその時がピークで以降は劣等生街道を突っ走った。放課後の居残り補習の常連で、ある時などは家で「もし一週間居残り無しに済んだら4シリング(25ペニヒ)のご褒美をあげる」と言われる(この金額、どこかで見た憶えがありますね!)ほどであった。だがそういうときには頑張れるもので、まんまとその賞金を獲得して Maultrommel(*) を購入。ユスティヌス・ケルナーも好んだというこの楽器を熱心に練習したがあまり上達しなかった。なにしろピアノも「三人の教師から八年間習った」がモノにならなかった、というのがハインリヒの音楽の才能であった。

学級の編成替えなどもあって、彼は入学した第五学級に三年間留まることになる。こんな成り行きでは毎日が楽しいはずもなく、さらにこの学級には非行グループが存在して学校生活を忌わしいものにするのであった。グループには十五歳を超える年かさの者もいて、全員がありとある悪行で知られていた。
総じていまどきの若者はたとえば四十年前の若者に比べて堕落しているとよく言われるが、私は自らの経験からその意見に賛同することはできない。当時もこの点で望ましくない連中はいっぱいいたし、もし私がその話をすれば現代の自然主義者ならば快哉を叫ぶことができるであろう。ちなみにこのグループのリーダーは、そいつが扇動してクラスの弱者たちを言うに堪えないやり方で虐げていたのだが、後にまだ若年であったが銃で自殺した。
Man meint jetzt oft, die Jugend sei im allgemeinen verdorbener als vor etwa vierzig Jahren, das aber kann ich nach meinen Erfahrungen nicht zugeben. Es gab auch damals genug, die in dieser Hinsicht nichts zu wünschen übrig ließen, und wollte ich davon erzählen, so könnte ein moderner Naturalist daran seine helle Freude haben. Der Anführer dieser Bande übrigens, auf dessen Anstiften die schwächeren in der Klasse auf eine nicht wiederzugebende Weise tyrannisiert wurden, erschoß sich später noch in jungen Jahren.
「いまどきの若者は」とは永遠に繰り返される慨嘆でしょう。

さて、第四学級 Quarta ではウマの合う教師に恵まれ幾分良好であったが、十五歳後半に第三学級 Tertia に進学して、少しは自信のあったドイツ語と理系科目よりもギリシャ語・ラテン語が重視されるようになると、以前の悲惨な状況に逆戻りということで、ハインリヒにとって学校は決していい思い出を残す場所ではなかった。

* Maultrommel 日本では「口琴」とか「びやぼん」とか呼ばれる。「竹製・鉄製の細長い薄片(舌)を指・紐で振動させ、口腔で共鳴させる楽器の総称。薄片の一端は枠に固定し、口にくわえる。アジア・太平洋・欧米などに分布、日本の「びやぼん」、アイヌの「ムックリ」もその一種。ジューズ‐ハープ(Jew's harp)」(広辞苑)
詩人で医師のユスティヌス・ケルナー (1786-1862) がこの楽器を好んだことは有名で、これを手にした肖像画 (http://de.wikipedia.org/wiki/Justinus_Kerner 参照) もある。
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エスカルゴ Weinbergsschnecke

ハインリヒが学校で得られなかった幸福はシュヴェリーンを取り巻く豊かな自然が与えてくれた。町の周辺は大小九つの湖が点在する風光明美な湖水地帯で、中でも町から8キロの「ピンノーヴァー湖」Pinnower See は「シュヴェリーンの真珠」と呼ばれるに相応しいたたずまいで市民の憩いの場となっていた。

町は南北22キロに及ぶ大きな湖のほとりに位置していた。この湖にはいくつか島があって、「カニンヒェンヴェルダー」もその一つ。もともとウサギを飼育していたことに由来する Kaninchenwerder という名の島はポツダムに近いハーフェル川にもあったが(「ベルリン物語 -13-」参照)、そちらは18世紀末以来 Pfaueninsel (孔雀島)と呼ばれるようになったので、「ウサギ島」はいまはシュヴェリーンにのみ残る地名らしい。

小高い丘陵状のこの島は大部分が原生林で、古木には蔦がからまり野生の果物やナッツ類、キイチゴなどが生い茂っていた。その場所にはまたカタツムリ(エスカルゴ) Weinbergsschnecke(*) が無数に繁殖していた。ドイツ人にはこれを食する習慣が無いので増えるにまかされていたのだ。だがこのカタツムリ天国が悲劇に見舞われる。1870年の普仏戦争で島にフランス兵の捕虜収容所がもうけられたのだ。

状況が変わったのは、あの大戦争時、相当数のフランス軍捕虜がこの島に抑留されたときのことだ。そこで無数の御馳走が、北方の蛮人には見下されている珍味が這いまわっているのを目にするや、彼らは歓声をあげて襲撃し一意専心これの絶滅に奔走したのである。カタツムリを求めて藪の奥深くまで分け入ったので、この温厚な家持ち動物がひとつ残らず美食外国人の胃に収まるまで、さほどの時を要することはなかった。
Das war aber einmal anders, als während des großen Krieges eine Anzahl von französischen Kriegsgefangenen dort interniert wurde. Diese sahen kaum die unzähligen Delikatessen, die dort, von den nordischen Barbaren verachtet, massenweise umherkrochen, als sie sich mit Jauchzen auf sie stürzen und sich mit Hingebung ihrer Vertilgung widmeten. Sie durchsuchten nach ihnen die dichtesten Gebüsche und es dauerte nicht lange, da waren diese friedlichen Hausbesitzer bis auf den letzten in den Mägen der schleckerhaften Fremdlinge verschwunden.
ハインリヒ・ザイデルが十二年後の1882年に訪れたときには、カタツムリは戦時のカタストローフから立派に回復、増殖して安穏に暮していたとのこと。

* Weinbergsschnecke はつなぎの -s- 無しで Weinbergschnecke と綴るのが普通。
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カエルの王様 Froschkönig

ハインリヒの祖母はギュストロー Güstrow に近いブレデンティーン Bredentin で相当大きな地所を小作していた。夏の盛りにザイデル一家はそこへ集まるのが習わしになっていた。農場は美しい自然に取り巻かれていて、少し行くと水鳥のたくさん生息する湖がいくつも連なってあるような土地だった。農場近くにも小さな池はあって、そこにはハインリヒもよく出かけた。水草に覆われて水面も半分は隠れているような状態だったが:
そこは緑の水カエル(*) の天国だった。近づくとみな大きな弧を描いて池に飛び込んだ。このカエルたちを一匹の王が支配していた。この王様は水の黒々と淀んだ場所に宮廷を構えていた。毎夜ひときわくっきりとその低音が聞き取れるこのカエルは、単に合唱指揮者に過ぎないのかもしれない。だが私は彼を王と見なしていた。というのもこれほど堂々としたのはそれまで見たことは無かったからだし、その後もこれに匹敵するようなものは目にしたことが無い。
Dort war ein Paradies der grünen Wasserfrösche, die in mächtigem Bogen in den Teich plumpften, wenn ich mich näherte. Diese Frösche wurden von einem Könige beherrscht, der an einer stark versumpften Stelle des Teiches seine Residenz hatte. Vielleicht war es auch nur ihr Kantor, dessen tiefen Baß man aus ihren abendlichen Gesängen immer deutlich heraushören konnte, allein ich hielt ihn für den König, denn ein solches majestätisches Tier hatte ich vorher nie erblickt, habe auch nachher nie seinesgleichen gesehen.
これは普通のカエルの少なくとも二倍の大きさで気品があり威厳に満ちていた。ハインリヒは、遊び友達にするつもりかどうかはともかく、これを何としても捕獲したいと願っていたところ、カエルは魚釣りの竿で釣れると聞いたので、待ち針を曲げて釣針にし、赤い布切れを餌代わりにつけた。
このしかけをカエルの王様の鼻先でぶらぶらさせると、陛下のご注目を賜ることになり、忝くもぱくりと食いつきあそばされた。私が釣竿の先で1フィートばかり持ち上げたところで陛下はふたたび落下あそばし、その驚愕と不興きわまるご様子たるや心の深奥から傷ついたご様子であられた。
Als ich diese Vorrichtung dem Froschkönig vor der Nase tanzen ließ, erregte sie die allerhöchste Aufmerksamkeit und Se. Majestät geruhten gnädigst danach zu schnappen. Ich lüftete ihn auch wirklich an der Angel etwa einen Fuß hoch, dann fiel er wieder ab und sah sehr beleidigt und verwundert aus, wie jemand, den man in seinen innersten Gefühlen gekränkt hat.
ハインリヒは長年この池に通ってカエルの王様を観察し続け、彼をこの種族のもっとも輝かしい被造物として後世に伝える義務を感じて自伝に書きとめた、とのこと。

* カエルの学術的分類は複雑で、Wasserfrösche は Grünfrösche とも呼ばれるが、民間では Teichfrösche も同じ名前で呼ばれるらしい。これは食用カエルのひとつで和名は「ヨーロッパトノサマガエル」。
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死んだ、もっと死んだ、最も死んだ tot, töter, am tötesten

豊かな自然の中で伸び伸びと過ごす休暇中の生活に比べて学校は相変わらず面白くなかったが、第四学級 Quarta 第三学級 Tertia のころにはハインリヒは「著作」という分野に暇つぶしのタネを見つけだした。学校生活や授業での出来事を即座にイラストにしたり、パロディーや風刺文にして雑誌を作り、「いわばクラスのための Kladderadatsch(*) を書いて」同級生を楽しませた。ここに後年のユーモア作家の萌芽を見ることができるのかもしれない。

そのころは滑稽なこと道化めいたことに興味が集中していたので、ギャグ、ジョークの類を書きなぐっていた。一枚の絵につけたキャプションが膨らんで韻文・散文の笑い話になり、それが更に長くなって一篇の笑劇にまで成長するということもあった。それらは級友たちに回し読みされたあとは大半が失われたが、戯曲『バターケーキ王子』 Prinz Butterkuchen は最後の場面が残っているとのこと。

主人公の王子が殺された場面、王が従者を伴って登場。
従者の一人: [...] あそこで王子が血の中を泳いでいらっしゃる。
王:泳いでいると。何ともはや。死んだと申すのか。
別の従者:非常に死んでらっしゃるように見えまする。覆いに王子の魂が通りぬけた穴が見えませぬか。
王:この穴が? きゃつの厚かましい魂には小さすぎる穴だ。死んでいると申すのか。バターケーキ王子は死んだでは足りぬ。もっと死ななければならぬ。最も死んだというのが所望じゃ。

Einer aus dem Gefolge. [...] liegt Prinz Butterkuchen und schwimmt in seinem Blut!
Der König. Er schwimmt? Verhaßte Fertigkeit! Und tot sagt ihr?
Ein Anderer. Sehr tot geruht der Prinz zu sein. Seht ihr denn an der Decke nicht das Loch, wo seine Seele durchgefahren?
Der König. Das Loch? Für seine dicke Seele ist es viel zu eng. Und tot sagt ihr? Prinz Butterkuchen ist nicht tot genug, noch töter soll er sein, ich will am tötesten ihn wissen.
彼の「創作」がどのような趣向のものだったかを伺わせるに足る断片であろう。
それはともかく、「死んだ、死んでいる」という形容詞に「とても、非常に」をつけて sehr tot と強調する表現からして可笑しいが(英語なら very dead )、ましてやこの形容詞を比較級、最上級にするなんて普通はあり得ないだろう。

ヘンな最上級と言えば、『ベルリン発見』という本の冒頭に、
アメリカは最も発見された国である。1492年以来、アメリカは発見され続けている。コロンブスから金鉱掘りにまで。
Amerika ist das entdeckteste aller Länder. Seit dem Jahre 1492 wurde es ununterbrochen entdeckt: von Kolumbus bis zu Goldberger.
-- Henry F. Urban: Die Entdeckung Berlins (Berlin 1912)
という言い回しがあった。「最も発見された」 entdecktest というのも可笑しい。
* Kladderadatsch は1848-1944年にベルリンで刊行された有名な風刺週刊誌。
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心情の底から aus der Tiefe des Gemütes

第三学級 Tertia に進級した生徒は、下っ端の "Neuer" を半年勤め、居並ぶ先輩たち(もちろん静かに立っているだけではない)の間を三周する厳しい試験に合格した者だけが、教室の大型定規で肩を叩く「叙任儀式」を経て "Alter" に昇格できるのだが、ハインリヒはようやく到達した上級身分を楽しむ間もなく、ギムナジウムを卒え将来の職業のための修業に入ることになる。

1859年の復活祭に堅信礼を受けたあと、シュヴェリーンの蒸気機関車修理工場に徒弟として入る。ここで1年間の修業を終えた後は、ハノーファーの高等工業学校 Polytechnikum に進むまでの半年、数学の個人教授を受けるとともに、父のもとで三点の作文を書いくことになった。作文のテーマは自由に選んでよいということで、これがハインリヒ最初の「物語創作」となった。

原稿は三篇とも残っていないが、どういうものを書いたかはよく覚えていると言う。一つは若者が遍歴途中で遭遇した火事を英雄的な活躍で消し止める話を書いた。もう一つは、そのころハインリヒは旅行に憧れていたので、主人公が山岳地方へ出かける物語にした。ある暑い日に平地を進む場面から書き始めたが、いざ山麓にきたところで息が続かなくなった。なにしろそれまで山なぞ見たことが無いのだ。
その時思い浮かんだのは、自然から遊離した昔のドイツ絵画のいわゆる理念的な方向性をからかった誰かの旨いジョークである。「もし」と彼は言う、「フランス人がラクダを描こうと思えば植物園(*) かアフリカへ赴き、四方八方からラクダを観察して写生帳をあるたけスケッチと彩色画で埋め尽くす。だがドイツ人にはそんなことは一切不要、心情の奥底からラクダを創造するだけのことだ」と。
Mir fällt dabei der hübsche Witz ein, mit dem einmal jemand eine frühere, der Natur abgewandte, sogenannte ideale Richtung der deutschen Malerei verspottet hat. "Wenn," sagt er, "ein Franzose ein Kamel malen will, so geht er in den Jardin des plantes oder er reist gar nach Afrika und studiert das Kamel von allen Seiten und zeichnet und malt ganze Skizzenbücher voll Kamele. Der Deutsche aber hat das alles nicht nötig, er schöpft es einfach aus der Tiefe seines Gemütes."
当時こんなジョークが行われていたということは、ドイツ人の深遠な「心情」 Gemüt には、その半面に「現実遊離」が伴うと、すでに意識されていたということだろう。ハインリヒは続けて言う。「さて私の心情は山を生みだすほどの深さはなかったので作品の完成をあっさり放棄してしまった」。
もう一篇はホフマンの『黄金宝壺』に匹敵する短篇をとの意気込みで、主人公の名前もアンゼルムスにして書き始めたが、これもついに断片に終わる。
1860年の秋、ハインリヒは十八歳で故郷を後にして、ハノーファーへ旅立った。
*パリ植物園 Jardin des plantes には動物園も併設されている。
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埃まみれのティーク Tieck im Staub

ハノーファーの高等工業学校で学び始めて一年が過ぎたころ、父ハインリヒ・アレキサンダー・ザイデルが亡くなった。仕送りが困難になってハインリヒは学校を中退、ギュストロー Güstrow の機械工場で働くことになった。ギュストローは「小パリ」と呼ばれていて、住民は明るく陽気であった。この町にあった大小2つの工場のうち、農業機械と風車の部品を主に作っている小さな方の工場に入ったのである。そこは叔父の知り合いが経営している工場だった。

それまでの学歴はあまり役立たなかったが、彼は先輩の職人たちに可愛がられたし、経営者の信頼も得るようになって、日当50ペニヒで働き始めて、二年後には週給3ターラーとなった。仕事が終われば、その頃はハインリヒはスターンの『トリストラム・シャンディ』を繰り返して読んでいたが、ほかによく貸本屋から本を借り出した。その店は狭い路地奥の日当たりのよくない建物にあった。番台の後ろの薄暗くカビ臭い空間にいる店主は、
・・・何かクセのある小柄な人物で、まるで幾度も貸出され擦り切れてすっかり古びた貸本のように見える。傍らには女房が座って編み物をしている。こちらも亭主とまったく同じで古びた貸本のよう、ただ装丁がちょっと異なるだけだ。そして私がカタログを繰ったり本を見せてもらったりしていると、たいてい窓を掻く音がする。女房が窓を開けると、素晴らしく美しい猫が悠然と入って来る。女房と猫は穏やかな信頼の眼差しを交わしたあと、猫はカウンターの上に寝そべってごろごろ喉を鳴らし、それに合わせて女房の網棒が静かにカシカシ鳴っている。
[...] einen sonderbaren, kleinen Mann, der ein Aussehen hatte wie ein recht alter, abegrissener und viel gelesener Leihbibliotheksband. Neben ihm saß seine Frau und strickte. Sie sah ebenso aus, nur daß sie ein wenig anders eingebunden war. Wenn ich dann im Katalog blätterte oder mir Bücher vorlegen ließ, kratzte es wohl am Fenster, die Frau öffnete es, und herein kam würdevoll eine wunderschöne Katze. Die Frau und die Katze begrüßten sich mit einem Blick liebevollen Einverständnisses, dann legte sich diese auf den Ladentisch und spann(*), während die Stricknadeln der Frau leise dazu klirrten.
あるときのこと、ハインリヒはいつものようにカタログを繰ってティーク Ludwig Tieck の一冊を注文した。すると、
ため息をつきながら実直な店主は書棚の最上段まで梯子を登った。そこにはこのロマン派詩人の作品集がほとんど新品のままの装いで長々と整列していた。
「この本はここで埃をかぶっている」と彼は言った。「いまやっとあんたが探し出して一冊借りたいというが、ほかに十年間一度もないことだ。こんな本は書かれなかった方がよかったのじゃないかな。」

Seufzend stieg der Brave die Leiter hinauf bis zum obersten Borte, wo eine lange Reihe von Bänden dieses Romantikers aufmarschiert war in Uniformen, die noch fast wie neu waren.
"Da stehen sie nun und fangen Staub", sagte er. "Jetzt fragen Sie einmal nach und verlangen einen Band, aber sonst kommt das in zehn Jahren nicht vor. Es wäre besser, die Bücher wären nie geschrieben!"
おそらくライマー版の28巻著作集 Ludwig Tieck's Schirften (1828-1854) と思われる。こんな本は書かれなかった方がよかった、とは「ロマン派の王」と呼ばれるティークも形無しである。

* eine Katze spinnt ネコが糸車を回す、という表現の意味については元同僚のベッティーナ・G さんからご教示をいただいた。Vielen Dank, Bettina-san!
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無言歌 Lied ohne Worte

ギュストロー Güstrow で四年半過ごしたあと、1866年の秋、ハインリヒは工業専門学校(工科大学の前身) Gewerbeakademie で機械工学を学ぶためベルリンに移った。当時このプロイセンの首都はまさに急速な発展・変貌を遂げようとし始めていたものの、その時はまだ「やたら巨大な村」以外の何物でもなかった。彼は初めは孤独であったが、同郷の美術史教授の紹介で「シュプレー川に架かるトンネル」 Tunnel über der Spree に参加することで人とのつながりが広がって行った。

この会は1827年にあの M・G・ザフィール が創設した結社で、会の守護聖人はドイツ民衆に語り継がれてきたいたずら者のティル・オイレンシュピーゲルである。会のシンボルは智恵のフクロウ、片方の脚に真実の鏡、反対の脚に阿呆の靴脱ぎ器 Stiefelknecht(*)をつかんでいる。そのU字形の一方の先端はヤギの耳(無限の皮肉)、もう一方の先端は羊の頭部(無限の憂愁)となっている。会長は「崇拝される統領」Angebetetes Haupt と呼ばれ、その権威の印としてブロンズのフクロウ像のついた長い杖を手にしていて、これでどんと床を突くことが開会と閉会の合図になる。名前から知れるように初めはユーモアと洒落っけの集まりだったが、次第に真面目な文学的な色彩を帯びるようになった。

宗教と政治に関する議論はご法度、会員は世俗の地位身分にかかわらずみな平等で、会合では結社内の呼称「トンネル名」 Tunnelname だけが使われる。ハインリヒは中世の詩人に因んでフラウエンロープ "Frauenlob" と命名されたが、会員にはそれぞれが歴史上の、または神話の人物名が与えられる。作家フォンターネ Th. Fontane はラフォンテーヌ "Lafontaine"、同じくシュトルム Th. Storm はタンホイザー "Tannhäuser"、画家のメンツェル A. Menzel はルーベンス "Rubens" などである。

夏を除いて会は毎日曜日の午後5時にコーヒーを飲みながら始まる。まずは前回の記録を読み上げ、事務的な用件をかたづけた後、その日の作品が朗読される。一つ終わる毎に、優、良、劣等、粗悪の評定が下される。最高評価は参加者全員が足で床をこする scharren(**) ことで示される。
こんな話が語り草になっていた。一人が相当つまらない退屈な歌を朗読して、その場に気まずい沈黙が流れたが、誰も死刑執行の口火を切らなかった。やがて情け深い心の持ち主が言った。「これは、まあそうだな、曲をつけるのには向いているかな。」―― すぐさま別の者が「だけど、無言歌のね。」と口をはさんで、それで一件落着となった。
Gern erzählt wurde folgende kleine Geschichte: Jemand hatte ein ziemlich fades, inhaltsloses Lied vorgetragen und dumpfe Stille herrschte rings im Umkreise, denn niemand mochte mit dem Henkeramte beginnen. Endlich sagte eine mitleidige Seele: "Nun, zur Komposition vielleicht wohl geeignet!" -- "Aber als Lied ohne Worte!" fiel sogleich ein anderer ein und die Sache war abgethan.
厳しいですね。

工業専門学校を二年で終え、1868年秋から Wöhlert が設立した機関車製造会社で一年半働いた後、「ベルリン・ポツダム・マグデブルク鉄道会社」に移り、次いで「ベルリン・アンハルト鉄道会社」に勤める。こうして十二年間、技術者・作家の二足のわらじを履く生活が続いたのである。
ハインリヒはベルリンの旧メインターミナル、アンハルト駅の大屋根建造などで際立った才能技量を示したが、周囲がアカデミックな専門教育を受けた世代に変わってゆく中で居心地の悪さを感じるようになったこともあり、1880年に会社を辞め作家として独立した。
* Stiefelknecht 「靴脱ぎ器」については、de.Wikipedia を参照されたし。
** scharren 「足で床をこする」は、つまらない講義に対して学生が行う不満を示すふるまい。この結社では逆にこれを最高評価の表現としたのである。