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パリの定食屋 prix-fixe restaurant



ヨーゼフ・ヴェクスベルク (1907-1983) はチェコの裕福なユダヤ人家庭に生まれ、ウィーン大学、ソルボンヌ大学などで学び、シューベルトやヴェルディの評伝を著し、第二次大戦後はアメリカの雑誌「ニューヨーカー」に旅行記や料理・ワインのエッセイを執筆し続けた「文筆家、ジャーナリスト、音楽家、美食家」writer, journalist, musician, gourmet ( 公式ホームページ による)です。

「一九二六年のある晴れた陽射しの明るい秋の朝、私は初めてパリに来た。ソルボンヌで学ぶためだった。」 と The First Time I Saw Paris の章が始まります。
-- Wechsberg, Joseph: Blue trout and black truffles. The peregrinations of an epicure. 1948

到着したパリ東駅からタクシーに乗り、モンパルナスへ行くよう、つまりソルボンヌのあるセーヌの左岸へ行くよう告げたが、彼の発音が良くなかったか運転手が正しく聞かなかったのか、モンマルトルへ連れて行かれる。朝八時半のピガール広場はごく普通の庶民的な町に見えたので、近くのホテルに宿を定めるが、夜になるとそこが歓楽街の真っただ中であったと気付く。一か月の宿泊料を前払いして投宿したのは、実は時間単位で部屋の借りれるホテルだった・・・

こうしてあでやかな女性たち、ミュージシャン、画家、得体の知れない物売りやらに囲まれたとんでもない留学生活がスタートするのですが、喧騒を離れた定食屋の部分を抜き書きしてみましょう。
何週間かするとこの界隈にすっかり馴染んでしまった。私は定食屋を見つけた。それは静かな裏通りにあって、ピガール広場から百ヤードも離れていないが、百年以上の時代の差がある通りだった。食堂はタイル敷きの床におが屑が撒いてあった。小さな四人用テーブルには大きな白い紙が広げて載せてあった。客が食事を終えるとウェイターがその紙に勘定を書き付けて、そのあとパンくずと一緒に丸めて運び去るのであった。次の客には新しい紙が用意される。
After a few weeks I became acquainted in the quartier. I found a prix-fixe restaurant in a quiet side street less than a hundred yards and more than a hundred years from Place Pigalle. The restaurant had a tiled floor, sprinkled with sawdust. There were small tables for four, covered with large sheets of white paper. When a guest had finished his meal, the waiter would write the addition on the paper, roll the paper with the bread crumbs together, and take it away. The next guest was given a fresh sheet of paper.

私に給仕してくれたのはいつもガストンだったが、喘息持ちの老人でリューマチも患っていた。天気の変わり目には機嫌が悪くて、客の注文に耳を貸しもせず、かってに自分が好きなものを運んでくる。だが彼はすばらしい味覚の持ち主だったので、たいてい私が選ぶよりおいしい料理を選んでくれた。
My waiter was Gaston, an old, asthmatic man who suffered from rheumatism. On days when the weather was about to change, he was ill-tempered and disinclined to listen to the guest's order. Instead he would bring the guest what he himself liked to eat. But his taste was excellent and usually he made a better choice than I should have done.

二種類の定食、一つは七フラン五十、もう一つは十フランがあって、この価格にはクヴェール、すなわちワイン小瓶かストラースブール・ビールの大瓶とお替り自由のパンが含まれていた。(パンは四切れまで食べていいと教わった。それ以上はマナーに反するのだと) 安い方の定食は前菜、肉料理、野菜とデザートかチーズであった。休日には私は気前よく十フランの定食を注文した。これには魚料理が加わるのだった。
There were two menus, at 7.50 and at 10 francs, including the couvert, a small bottle of wine or big bottle of bière de Strasbourg, and bread à discretion. (Four pieces of bread were permissible, I learned; to take more was considered indiscreet.) The smaller menu offered hors-d'œuvre, entrée, one vegetable, dessert, or cheese. On holidays I threw may money away recklessly and feasted on the ten-franc menu, which included a fish course.

メニューは紫色のインキで書かれていて、フランスの鉄道時刻表と同じように読みにくかった。日替わりのスペシャル料理は、特別豪華列車と同様、赤でマークされていた。その特別料理はたいてい簡単で栄養のあるものだった。カスレ・トゥールーズ(ラングドッグ地方のシチュー)、アリコ・ド・ムートン(羊肉のシチュー)、ブランケット・ド・ヴォー・ア・ランシェンヌ(子牛の昔風ホワイトソースシチュー)とかプティ・マルミット(小さな鍋)だった。ガストンはこれらの料理を好んでいたので、よくこういった料理を食べさせられた。彼は「家庭のような味」と言うのがレストランにとって最高のほめ言葉だといつも言っていた。
The menu was written in violet ink and was as difficult to read as a French railroad schedule. The specialties of the day, like de-luxe trains, were marked in red ink. The specialties were "homely" dishes, cassoulet toulousain, haricot de mouton, blanquette de veau à l'ancienne, or a petite marmite. Since Gaston liked those dishes, I had them frequently. Gaston said that the best thing one can say about a restaurant is that it's "almost like home."
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確かにパリのレストランで紙のテーブルクロスにはしばしばお目にかかりました。ウェイターが紙をワサワサっと片付けるところも。でもタイル敷きの床におが屑、というのは体験したことがありません。床掃除に都合がいいからでしょうか。昔は床にどんどんモノを捨てたのかな?
みんなごみを平気でポイポイ道路に捨てて、早朝、大きな散水車がドドッと放水して下水へ流し込むという光景も良く見ましたが、いまでもそうなのでしょうか。

この本にはドイツ語訳もあります。
-- Wechsberg, Joseph: Forelle blau und schwarze Trüffeln, München 1979