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メモ帳 -- 抄録、覚え (その13)


ならまち大冒険

最近「ならまち」をよく歩いている。この四月から完全素浪人となり、なにしろ週7日すべてが自由時間、人からは好きなだけ本が読めるでしょうと言われて、それはそうでもやはり気分転換が必要と、健康維持も兼ねてできる限り出歩くことにした。奈良市に住所を移して20年、興福寺、東大寺、春日大社、国立博物館など決まった所は何度か訪れているが、それ以外であんまり奈良市内を歩くことはなかった。それで手始めにならまち探索を始めたのである。少し歩いて、自分は奈良の「初心者」だと痛感した。

ところで毎日新聞奈良版に月2回のペースで「ならまち暮らし」というコラムが連載されている。筆者は「作家、詩人」(コラム末尾にある肩書)の寮美千子さん。5月11日のタイトルは「幻の福寺」。福寺という寺院、室町時代は服寺として記録にあり、江戸期の書物では行基が亡き母の菩提を弔うために建てたと記されている。ならまちの南端にあたる京終には以前「福寺池」があって、昭和45年に埋め立てのため水を抜いたとき瓦、石仏、石塔が出てきた、その瓦を改めて調べて奈良時代の瓦と判明、福寺が古代から確かに京終にあったと証明されたとのこと。この瓦などを中心に「ならまちの南玄関――肘塚・京終の歴史文化」なる企画展が元興寺で開かれている、というので早速訪れてみた。ならまちでも南のほうはめったに行かないし、京終には一度も足を運んだことがないので、当該の瓦など出土品や古地図などをじっくり鑑賞してきた。

寮美千子さんは十年ほど前に関東からわざわざ「ならまち」に移り住んだ人である。数年前、やはり毎日新聞に奈良を舞台にした童話「ならまち大冒険」を連載されていたので、そのころからお名前は存じ上げている。これは絵本になり、寮美千子:作/クロガネジンザ:絵『ならまち大冒険――まんとくんと小さな陰陽師』(2010 毎日新聞社)として出版されているので、改めて図書館から借り出して読んでみた。

主人公の太郎くんは東京に住む少年だが、奈良の漆職人の孫で、冬休みにおじいさんの家にやってきた。その道中で、また奈良に着いてから奇妙な出来事に行き逢う。それを聞いたおばあさんの姉の、ずっと東京暮らしだったが十年前に奈良に戻ってきた「トラ」さんは、うちは代々陰陽師の家系だ、太郎よ、お前は不思議な力を持つ子だと言う。おじいさんの家でも庭の灯篭が倒れたり屋根瓦が落ちたり、気味悪い出来事が続く。おばあさん(「ヤギ」という名である)は、気のせいだよとか幽霊の正体は枯れ尾花だよと取り合わない。だが夢の中でこの家の飼い猫に、これは鬼のしわざだ、太郎くんは奈良町を守る使命がある、と説得されて鬼退治に出かけることになる。つまり一種の「桃太郎の鬼退治」物語で、太郎くんが奈良町の鬼退治をするという仕掛け、 そのキャラクターのセッティングが見事で感心させられる。

漆職人のおじいさん、姓は杏と書いて「からもも」と読む。先祖が杏町「からももちょう」に住んでいて、奈良町に越して来て漆の塗師になって、それで「杏」という苗字になった。だから太郎くんは「杏太郎=からももたろう」である。この家に飼われている猫がキジネコで名前は「キジ」。これが第一のお供で、あとは猿と犬だが、猿はこの町をご存知の方はすぐにあれだとわかるはず。町内の家の軒先に、住民の災いを代わりに受けてくれるという「身代わり猿」のお守りが吊るされていて、その信仰の拠点、庚申堂の前の線香台を支えるのが猿の石像だからだ。これが第二のお供。あとは犬だが、これは神社の狛犬が出番。ここではもちろん陰陽町にある鎮宅霊符神社の狛犬が選ばれて、これで桃太郎とお供は勢ぞろいである。ちょうど漆の行器(ほかい)を受け取りに来た団子屋さん(「たまうさぎ」か?)が「串刺しのきなこ団子」をお土産にくれて、吉備団子に代わる小道具も揃った。

このように登場キャラクターとストーリーがきっちりと奈良町に組み込まれている。「桃太郎の鬼退治」では鬼が島に出陣するが、この物語では不思議の国のアリスのように、特別の出入り口から異次元世界にワープする。奈良町での《ウサギ穴》は不審ヶ辻子、「ふしがづし」と読み、鬼が出没したという伝説のある実在する町名だ。鬼の国に通じる秘密の扉として、これほどぴったりの場所はないだろう。ここへマントを翻してまんとくんが現れ、みなで呪文を唱えると、塀に大きな門が現れる。門をくぐると、そこは平城京の建設現場、1300年昔にタイムスリップしたのだ。

たくさんの人々が新しい都を作るための造成工事をしている。埴輪がいくつも掘り出されている。そこに赤鬼、青鬼が出てきて、人の墓を壊すとは何だと工事人たちに棍棒をふるって襲いかかる。人々を守ろうとする桃太郎一行と派手な戦闘となるが、投げられたり蹴られたりで形勢不利だ。加勢するまんとくんもあっけなく墜落、鬼に踏み抑えられる。そこに登場するのが白虎、都の守り神。口から白い霧を吹いてみなを凍り付かせ、桃太郎一行を助けて空へ消えてゆく。実は、もう亡くなった「キジ」の母猫、白い猫でイタリア語で「ビヤンコ」と名付けられたというが、これが白虎の化身、苦心のネーミングだろう。

ビヤンコ=白虎が消えて、赤鬼、青鬼は「おれたちが鬼退治をしようとしたのに、おまえたちがじゃまをする」という。太郎が「鬼は君たちだろう」というと、自分たちはこの土地の守護神だという。そして奈良町で灯篭を倒したり、瓦を落としたりするのは、町の古い家をどんどん壊して新しい家を建てているのを見て悔しくて、暴れているのだと男泣きに泣く。つまりは無節操な開発を進めるけしからぬ輩どもこそ退治すべき本当の鬼なのだと、最後にどんでん返しが仕掛けられている。

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2010年は平城遷都1300年祭で様々な催しが行われた。その一環として発表されたマスコットキャラクターが「せんとくん」であるが、そのデザインに「気持ち悪い」など批判が殺到した。仏教界からも「仏様を侮辱している」と異議がとなえられた。また「一般公募せずに専門家から募った21案中から、広告代理店を通したコンペで選考されたこと、選考に市民の参加が無かったことなども批判の的となった」(ウィキペディア)のである。

かくして市民の中から独自の図案を作ろうという運動が起き、生まれたのがこの絵本にも登場する「まんとくん」である。こういういきさつ(*)があるので、作中次のような箇所を読むとにやりとする人がいるのではないか。太郎のおばあさんで現実派のヤギさんと、神秘を信じるその姉トラさんの対話である。
「・・・ねえ、コヤギちゃん、知ってる? このごろ奈良町じゃあ、おかしなことが起こっているっていうじゃないの」
「そ、そりゃあ、そんなうわさもあるけれど……」
「夜中にトナカイの角の生えた丸坊主の鬼がやってきて、庭木を食い荒らしたり、鉢植えをひっくりかえしてるっていうじゃない」
「なんで奈良にトナカイの化け物が出るの。あれは、鹿や。冬になって食べるもんがのうなったから、山から町に下りてきたんやろ・・・」(P.73/74)
「トナカイの角の生えた丸坊主の鬼」といえば、そう見えるのは、あれでは?
* このような騒動で逆に「せんとくん」が知名度を上げ人気を獲得する中で、「なーむくん」という第三のキャラクターを作った仏教界も和解に転じた。この二つは彦根の「ひこにゃん」の仲立ちで仲直り。あれやこれやあったが、「せんとくん」「まんとくん」「なーむくん」のうち、いま観光客にも市民にも定着しているのは「せんとくん」だけだろう。彼には葛城市のキャラクター「蓮花ちゃん」という恋人も現れた。

不審ヶ辻子

前項で寮美千子さんの『ならまち大冒険』に描かれた物語の舞台と実際のならまちの街並みとの対照を鑑賞したが、主人公一行が1300年の時をワープする場所《不審ヶ辻子》を、「鬼が出没したという伝説のある実在する町名だ、鬼の国に通じる秘密の扉として、これほどぴったりの場所はないだろう」と説明したものの、その言い伝えのことと《辻子》の町名(奈良市内の2、3か所で目にする)が気になって、調べてみることにした。

言い伝えに関しては、奈良市観光協会のWEBサイトによると、昔、ならまちの長者の家に忍び込んで捕らえられた賊が、鬼隠山から谷底へ投げ落として殺された。この賊が鬼となり、毎夜元興寺の鐘楼に現れて人々を悩ませたので、当時、元興寺にいた力持ちの小僧が鬼を退治することになった。小僧は鬼を退治しようと争ううちに夜が明けてきて、鬼は慌てて逃げ出した。小僧は鬼の後を追ったが、あるところで鬼の姿を見失った。それからその辺りを「不審ヶ辻子」と呼ぶようになった、とのこと。

この鬼については『日本霊異記』『本朝文粋』などの文献にあらわれ、江戸時代の浮世絵師、佐脇嵩之の絵巻『百怪図巻』や、鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』に「がごぜ」として描かれている。元興寺の公式サイトに「元興寺の鬼」の項目があり、そこでは元興神(がごぜ)について次のように解説している。
近世の風物や習俗を解いた書物には、子供を威すのに「ガゴジ」、「ガゴゼ」と言って、目を見開き、口を大きく開けて、鬼の真似をすることがあったという。「ガゴゼ」というのは、昔、元興寺にいた鬼のことをいうので、「ガゴジ」(元興寺)といったが、後に寺方が「ガゴゼ」(元興神)というようになったと識している。

狂言「清水(しみず)」の中で、太朗冠者が清水寺に代参するのを断わる理由として、「ガゴゼが出るから恐ろしくて行けません。」というセリフが今も残っている。
『大和名所図会』の元興寺の項には、「美しい女(おんな)を鬼ときく物を、元興寺(がごじ)にかまそというは寺(てら)の名」と言う狂歌が載せられている。
つまり、元興寺は寺の名よりも鬼の代名詞として浸透していたことが分かるものである。

元興寺の鬼伝説は、「日本霊異記」の道場法師の話がその原型とされる。道場法師は雷の申し子として誕生し、大力となって朝廷の強力に勝ち、元興寺の鬼を退治し、寺田の引水に能力を発揮して功績を上げ、後に立派な法師となったという出世話である。ところが、この中で鬼退治の場面がクローズアップされ、唱導師が解釈を加えて、鬼事(春を迎えるおこない)と結び付けられていったのであろう。元興寺では鬼を退治した道場法師を神格化して、「八雷神(やおいかづちのかみ)」とか「元興神」と称し、奇怪な鬼面を伝えている。農耕を助け、鬼を退治し、佛法を興隆した鬼神を象徴しているのだろう。
寺の名前がそのまま鬼の名前になったとは知らなかった。「つまり、元興寺は寺の名よりも鬼の代名詞として浸透していたことが分かる」と元興寺みずからが語っているところが可笑しい。確かに手元の国語辞書を調べてみると、どれにもこの語が収録されている。『大辞林』(三省堂)では:
がごう‐じ【元興寺】〔「がんごうじ」の転。元興寺に鬼がいたという伝説から〕
(1) 鬼の異名。がごじ。「清水へ参れば、--がいでて人をくふと申すほどに/狂言・清水」
(2) 鬼のまねをして、子供をおどすこと。がごじ。がごぜ。
《不審ヶ辻子》には幾通りかの読み方がある。「フシガヅシ」「フシンガヅシ」「フシンガツジ」など、また「フリガンヅシ」もあるそうだ。奈良市の公式の町名《不審ヶ辻子町》は「フシガヅシ チヨウ」となっていて、これは日本郵便の郵便番号検索サイトでも同じである。ただ、不思議な出来事が起きたところだから「不審」が町名に用いられた、というのは竹取物語による「不死山(富士山)」の地名由来譚の類で、後付けの理屈っぽい。地名の由来については鬼の伝説の他に、町の東の道に井水があり、辺りに藤樹があったので「藤井ケ辻子」と呼ばれたのが転じたという説もある(*)とのこと、しかしこれが正解だと一般に認められるには至っていないようだ。

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もう一つ興味を惹かれたのは《辻子》である。これでなぜ「ずし」(または「づし」)と読むのか、もともとは何を意味したのか、語源は何なんだろうか。奈良市内には不審ヶ辻のほかに、百万ヶ辻子と今辻子という町名があるのだ。これに関しては、図書館で足利健亮「辻子再論」(**)という論文を見つけて読んだのだが、《辻子》には複雑に込み入った問題があり、次々と芋づる式に文献が浮かび上がってくるので、深みにはまってなかなか抜け出せない仕儀と相成った。これについては項を改めて。
* 山田熊夫『奈良町風土記 正篇』(昭和51年、昭和53年再版 豊住書店 )、38頁
** 『橿原考古学研究所論集 第五』(昭和54年)、426-475頁

辻子とは?

足利健亮「辻子再論」を読んでまず驚かされたのは、「再論」と題されているのだが、これが論争の文章であったことだ。論文筆者はすでに「京都の辻子について」(『現代都市の諸問題』昭和41年 所収)を発表していて、なぜ再論するのかというと、先の論文に対して「最近、建築史学畑の人で高橋康夫という人から、足利の<結論は私見によればまったくの誤りである>と断じた、勢いのある、しかしかなり乱暴な批判を受けたからである」という。どうやら根本的な問題、辻子とは何かという定義が争われているらしい。

足利健亮の先の論文「京都の辻子について」は、「辻子が通りであることが、いわば学問的に最初に確認されたのは、坂本太郎氏の論文「辻子について」(『史學雜誌』三九の四、昭和三年 )によってであった」(426頁)とする。その坂本論文の辻子についての理解は、

1) 一筋の道であって、十字街頭を意味する辻とは違う。
2) 東西にも南北にも通じ得た。
3) 小路である。
4) 原則として行きぬけがあった。
5) 時には町とも呼ばれた場合がある。

とまとめられる。鎌倉幕府の「宇都宮辻子」が「宇都宮辻」と間違われることを正すのが坂本氏の論文執筆の動機にあったので「辻子」と「辻」の違いを示すのが重要であったろうが、上のまとめでは必ずしも辻子なるもののイメージが鮮明でないと気づいて、『京大絵図』(1741) あるいは『京町鑑』(1762) にみえる京都の辻子100例を用いて坂本説を再検討した。その結果、1) ~ 4) は例外もあれば辻子の定義に関わらないものもあるとした上で、5) については、単に呼び方の混用ではなくて、辻子と町とは異なるものと主張したのである。
辻子と町とが混用される場合があることの意味がわかり、辻子とは何かがわかったのは、結局のところ『京町鑑』中の「くちなわの辻子」に関する次の記載によってであった。

松原通六道より一町程東北へ行筋俗にくちなわの辻子とて北は安居御門跡前へ出る筋今悉く町となる

この文章は、くちなわの辻子が今や「町」になったと記している。町になるということは、その道に面して家々が並ぶということにほかならない。いま町になったということであるから、以前は町ではなかった。その、町ではなかった状態の「通り」を辻子といったのである。(429/430頁)
[中略]
辻子と町との混用例、あるいは「辻子町」と表現するようになった事例は、辻子、すなわち単なる通過の為の道として起源したその道が、道があるという便利さの故にその両側に家並みをさそい、やがてその辻子の両側が町と呼ばれるようになった事例に他ならないのである。(433頁)
この、辻子は町通りではない道のことを意味する、という結論に対して、高橋論文は「辻子が町とも呼称されている」資料を示し、辻子が道と町との双方を意味するように「語義が展開」した、とみているらしい。
辻子イコール町となったということであるならば、なぜ「辻子町」という表現が成立し、近世を通じて存続し、現在まで生き残ってきたのであろうか。辻子という語が町という意味を持つように「展開」したのであれば、「辻子町」という表現には重複が含まれる。辻子が道と郷を意味するように「展開」したのであれば、「辻子郷」という表現も同じく重複を含む。それはあたかも「辻子辻子」あるいは「町町」「郷郷」というに等しく、「先生様」と呼ぶのに似てこよう。それは不合理であり、言葉に繊細な神経を使った中近世の人々の耐えられることではなかったに違いない。(461頁)
辻子という呼称があるのにそれを町とも呼ぶ、それはどうしてなのかを問うところに、研究の第一歩がある、ここから出発して「辻子は町通りではない道のことを意味する」という結論に達したのを、「皮相的な」「論語読みの論語知らず的な」史料の読み方で、<まったくの誤り>などといわれたのではたまらない、と難じるのだ。

おやおや、これは激しい! こうなると最初の足利論文と高橋論文にも直接あたってみて論争の対立点をしかと確かめねばなるまい。

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足利健亮「京都の辻子について」(藤岡謙二郎編『現代都市の諸問題』地人書房 昭和41年)はまず、坂本太郎「辻子について」(昭和3年)を「辻子を正面からとり扱ったほとんど唯一のもの」と紹介し、それと藤田元春『都市研究・平安京変遷史』(昭和5年)の考証を取り上げて、「両者は今日相たずさえて、われわれが辻子のイメージを描く際の主な拠りどころとなるもの」と評価する。けれどもこれで辻子が正しく説明されたとは思われないので、『京大絵図』(寛保元年 -1741-) あるいは『京町鑑』(宝暦12年 -1762-) にみえる京都の辻子100例を用いて、坂本論文で言及された5点を再確認する作業に取り掛かる。

1) の、一筋の道であって、十字街頭を意味する辻とは違う、ということに関しては改めて論を重ねる必要もない。2) の、東西にも南北にも通じ得たという点は、100例のうち東西例、南北例がほぼ同数で、ななめに通じ直角に屈折した例もあるので、この点は辻子の本質にかかわらない。次の 3) 小路である、は小路の印象が強い辻子は数多いが例外もある。4) 原則として行きぬけがあった、これも原則としては正しいが袋小路も2例ある。しからば一体辻子とは何なのか。そこで 5) 時には町とも呼ばれた場合がある、という事実を通して辻子の実態に迫る、と論を進める。

そして混用されたと思われる23例を詳細に検討し、町と辻子の違いを地図・図面によって考察して、「辻子と町との違い、つまり辻子は単に道であって、それに向かって町(家並)・寺(寺並)・大邸宅等が、その主要な頬(簡単に云うと正面)を、しかもかなり独占的に向けているという道以外のものにつけられた名称である」(175/176頁)と結論づけている。

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高橋康夫「辻子 ―― その発生と展開 ――」(史學雜誌 86-6 昭和52年) は、このように書き始められている。
辻子は都市的色彩を色濃く帯びていた。辻子が京都・奈良・鎌倉といった歴史的都市、いわゆる古都に集中して分布したという以上に、それが市街稠密化、あるいは都市再開発の進む中で中心的な機能を担った道であったからである。後述するように、辻子は一般的にいって高密度生活空間を開発することを目的として、旧来の街区に新たに開かれた道なのであった。(909頁)
そして「管見の限りでは、辻子を論じた先学として、坂本太郎・藤田元春・高柳光寿・足利健亮・小寺武久の五氏に過ぎないと思われる」としてそれぞれの論を紹介する中で、足利論文の「結論は私見によればまったくの誤りである」との見解が記されているのだ。

最初に辻子の用字・発音・語義・語源を取り上げられる。史料上で辻子の初見は治承四年(1118年)の「今辻子」として、その史料から「今辻子」は 1) 十字街頭を意味する辻ではなく一筋の道であり、2) 東西方向の道であり、3) 新たに開発された道であり、4) 大路に口を開けていた、ことがわかる。これから辻子は新たに開発された、平安京条坊制に基づく道路体系とは異質な道で、新市街の形成の一契機になっていると推論する。

用字には、辻子、図子、通子、厨子などが現れ、発音(読み)はヅシ、すし、ツシが現れている。用例をみると辻子と辻が古くから混用されていた、辻が変化して辻子になった、「すなわち辻が辻子の語源ではないかと推察」される。そして辻は会意による国字で、辻は十字から出た語と考えられ、十字を「ツムシ」「スシ」、辻を「ツシ」「スシ」と読みをつけている文献を挙げ、「結局、十字・辻・辻子は同じ発音であった」という。
要するに、十字が語源であり、ついでその意味を表す国字として辻が作られた。十字の語義は不詳であるが、文字通りに十字状の道を意味したのであろう。そしてやがて辻の意味がわかれ、道の交点に比重を置いて辻が、他方十字状の道を重視して辻子が用いられる、というように用字・語義が分化していったと考えるのである。(915頁)
次いで平安時代末期に条坊制に基づいた町に異質な道が出現した理由の考察に移る。四行八門の区画には「小径」があって、辻子がこれの遺制と考えられたこともしばしばあったが、それは誤解である。辻子は小径とは無縁で新たに開発された道で、辻子の新設は新たな街区の開発である。方一町の敷地に営まれた貴族住宅が次第に消えてゆき、細かく分割されて新たな街区が形成されるときに辻子を必要とした。こうして平安京が中世京都へと変容してゆく。

京都と同様多数の辻子が存在した中世奈良の状況も検討される。奈良の辻子の初見は建久八年(1197年)の史料にみえる「押上辻子」で、東大寺の門前郷である国分郷に所在した。このほかいくつかの辻子を検討し、永島福太郎(*)の研究を参照しながら、奈良独特の東大寺、興福寺、元興寺、春日社などの門前に開けた小集落「郷」は辻子を核として形成され、辻子を郷名とする郷も数多く生まれた。辻子の開発が集落形成に寄与したこと、「辻子が道と郷の双方を意味するように語義が展開した」(934頁)とみる。辻子の発生は中世奈良への傾斜が始まったことを意味する、と言う。

中世京都の、辻子をもとに発達した町の発展を論じ、さらに近世の都市化において「突抜」「突抜町」と呼ばれる新しい通り、町が現れたことに議論が及ぶ。突抜は辻子と類似した語義・形態をもっていて、両者の混同も数多くみられる。
最後に一つだけ述べておきたいことがある。それは辻子という言葉で表現された都市的現象の普遍性である。辻子は、歴史的かつ地域的な言葉であるが、それが意味する都市的現象の本質はそうではない。一般に、都市が成長し、市街稠密化がある段階に達すれば、必ず都市内部空間の高密度利用を目的とした都市再開発が行われる。そして、そこに都市化の状況に応じた新たな街区と、それを有効に機能させる新しい道路が生まれるのである。だから、国内、国外を問わず、歴史上の都市であっても現代の都市であっても、同様の都市的状況にさえあれば、そこに辻子に類似した道路を見出すことができる。碁盤目状の道路体系を有する都市にあっては、とくに顕著に認められることはいうまでもないであろう。(950頁)
高橋論文は、辻子の生成を普遍的な都市化現象に位置付ける試みだったので、辻子の歴史的定義を問題にした足利論文とは視点が異なり議論がかみ合わなかったのではないか。街区の発展に必要となる道路と見る立場からすれば、「単なる通過の為の道として起源したその道が、道があるという便利さの故にその両側に家並みをさそい、やがてその辻子の両側が町と呼ばれるようになった」とまとめるのは話が逆で、それが<氏の結論は私見によればまったくの誤りである>という言い方になったのかも知れない。

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それでは足利・高橋両論文が考察の出発点にしている坂本太郎「辻子について」(『史學雜誌』三九の四、昭和三年 )を見てみよう。この歴史的な論文はこう書き始められている。
【旧字旧仮名は現代表記に改めた、以下同様】
辻子は現今では多く図子と書かれる。何れも「づし」と読む。小路、横町などの意味を持つ京都の言葉である。概ね他の語と複合して固有名詞となること、白梅図子、御霊図子の如くであるが、又単独に普通名詞として用いられぬことはない。「図子の奥」とか「図子に入る」とかの如くである。私は暫く京都に滞在し初めてこの語を耳にして実に不思議の思を抱かざるを得なかった。「づし」の語に依って示される概念に器物としての厨子以外に何物かがあろうとは夢想だにしなかった所であるからである。(399頁)
かくて江戸時代の文書『京羽津根』と『雍州府志』を検討して、
・・・辻子が東西にも南北にも通じ得たことを示し、中御霊辻子の説明に「室町通今出川より一町北の通西へ入所」とあるごときは辻子が小路であることを明瞭に語っている。又松並辻子の條に「但行きぬけなし」と註していることによって原則として辻子の行きぬけあったことが分かると共に、綿屋辻子の條に「七軒町と云」とある為に辻子が町とも呼ばれ得たことが了解される。(400頁)
その他いくつかの例を挙げて辻子と町とがしばしば混用されたことを示した後、こう述べる。
以上私は江戸時代の辻子についてその性質の大体を説明した。これに対して私の特に注意したいことは辻子のあく迄も一筋の道であることである。十字街頭であるべき辻とは全くその性質を異にすることである。(401頁)
その上で鎌倉の辻子の問題に移る。『吾妻鏡』の記述を取り上げ、鎌倉時代「宇都宮辻(子)幕府」の敷地を「小町大路中十字ヲナセル所其地ナルベシ」という旧説にたいして、小町大路と若宮大路を連結する小路と推定すると、すなわち「宇都宮辻」ではなく「宇都宮辻子」にあったとすると、これまでの解釈困難な問題が解決可能であると論証する。辻子の語源にも言及し、「づし」と「辻子」の先後の関係については、これまでの説に反して、まず一部人士が文筆の上に「辻子」を用いたのに始まって「づし」の発音が行われたとして、興味深い推論(**)を披歴する。
辻子よりづしの発音が将来された経路は甚だ明ならぬけれど「つじし」の転訛とするより外は致方ない。かくて私はづしの問題を転じて辻子の意義の問題とした。抑も辻子の文字によって彼等はいかなる概念をあらはさんとしたか。最も普通なる解釈は他に多くの例ある如く子をもって名詞の単なる suffix にして特に意味を持たぬとすることである。すなわち辻と辻子とその意義を同じとすることである。(408頁)
この論文で、辻子の方角・道幅・行きぬけ・町とも呼ばれたことなどに言及しているのは、厳密な定義を与えるためではなく、論述の前提として、辻子のおよその姿(「性質の大体」)を示すためだった。この議論の進め方を見ると、足利論文による論点整理はちょっとニュアンスが違う気がする。坂本論文は、あくまで「辻」と「辻子」の峻別に焦点が当てられていた。

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この論争であまり大きな位置を占めるわけではないが、足利・高橋両氏とも辻子に関する先駆的な業績の一つとして挙げている藤田元春『都市研究・平安京変遷史』(昭和5年)についても、辻子に触れられた部分だけは見ておこう。

室町末期、戦国時代の記録で、祇園の氏子など古い町並みは方一町の町割りで、半町ごとに南北に小路を通すのが通例であった。ただ半町ごとにつけられた小径の例を知らぬものは、自分たちの町も方一町の街並みにした。だから、とこう述べる。
【旧字旧仮名は現代表記に改めた、以下同様】
今之を二万分の一地形図にあたってみると、いかにも三條通から高辻までの間(松原は一町南)、堺町筋から油小路までの間、即戦国時代の中核はすべて方一町の町である。勿論その中のある町には半町目に小径をつけているので、今に新図子、竹の図子、炭の座図子、カウヤクノ図子、了頓図子などという特称をもつ図子が出来ている。(35頁)
以下、北一條室町付近(西陣)あたりの図子と呼ばれる小路の名称が列挙されている。織田、豊臣の時代には次のような状況であったと言う。
さきにも述べたが、京の最初の町割ではその中央部は大路八丈小路四丈によって條坊町保をわかった。従って一町の方格は四丈もしくは八丈の街路をめぐらした一格である。町人はその一格に住んで四行八門であるから、この一町の中に南北の小径があるけれども元来の町割ではこの小径は全市を縦に通ずるものではなかった。故にこれにヅシという名がついた。
現に天正以前の町割と考えらるる祇園鉾出区、及西陣区には実にこのヅシの名称を持つものが多い。
秀吉はこうした不便を熟知し、その市区整理をした所はこの半町のヅシを、古の街路と同様に南北に通ぜしめたのである。換言すれば半町ごとの道は古い延喜式に出ている町内の小径である。しかしそれは元来全市にわたる系統的の公道でなかった。それを秀吉の天正度になって古の大路小路の列に昇格さしたので、この点天正の地割が短冊形の特色をしめす原因となった。(45頁)
図子は「四行八門一町の南北の小径」とする藤田説に対して、足利・高橋両論文とも、辻子には東西方向のものもあったこと、平安京外に位置するものもあったことを指摘して、それぞれ「すこぶる疑わしい(足利)」「誤った理解である(高橋)」と論じている。

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その後、足利・高橋の辻子論争はどうなったか。両者の直接のやり取りがあったのかに関して私には情報がありませんが、お二人はそれぞれの分野で論文や著書など多くの業績を挙げていらっしゃる。そして片方の歴史地理学からの、もう一方の建築史学・都市史からの辻子に関するアプローチは続いたようだ。

例えば京都地名研究会の通信誌「都藝泥布」第19号の近刊紹介欄には『京都の地名 検証2』(2007年)が取り上げられていて、「地名研究のレベルを高めた「突抜」「辻子」は、故足利健亮(***)の先駆的業績を金坂清則副会長(京都大学大学院教授)が継承し、さらに多くの突抜、辻子地名を収集、高橋康夫氏の「突抜の形成は秀吉の市中町割の改造に伴うもの」(『京都中世都市史研究』ほか)などの説に対し「突抜は秀吉とは無関係でそれ以後の場当たり的再開発によって開かれた」と批判し、足利説を補強して論を深めている」というような記事も見える。

さて、いずれが事象を正しく捉えているのかは門外漢の容喙するところではないでしょう。しかし若い理系の助手に<結論は私見によればまったくの誤りである>と批判されたとき、十歳年長の助教授が<皮相的な史料の読み方><論語読みの論語知らず的な史料の読み方>と、いささか感情的な応対をしなければ、歴史学と建築学の有意義な議論が成り立ったのではないかと残念な気がしないでもありません。私が所属していた学会の研究発表会では、ドイツ人研究者が発言者に向かって、"Sie sind falsch!" 「あなたはまちがっている!」なんて言い方をするので驚いたのですが、それでも平静に意見交換は続いていったので、そういうものかと感銘を受けたことがありました。
* 永島福太郎『奈良』<日本歴史叢書 3> 日本歴史学会編、昭和38年、など。
** 高橋論文ではこの語源説を「史料的根拠に乏しく推察に止まっている」と評して、「十字・辻・辻子は同じ発音であった」と認められるので「このように同一の発音である理由としては、語源が十字にあり、その読み「ジフジ」が転訛したと考える以外に、適当な見方はないであろう」(915頁)としている。
*** 足利健亮氏は1999年に亡くなられている。

寧楽人的

図書館で奈良関係の書棚を眺めていて、こんなタイトルの本が目に留まった。
藤野和之助『夢なら寧楽人的に』(1987年、自由が丘書院)(*)
寧楽人的 ―― ナラマンチックと読ませる。著者藤野氏の創始になる形容詞だ。この書は「夢、ロマン、NARAについて」から始まり「言葉そして文字」と続いて、奈良について、外国語について、学問について、仕事について、あるいは時評めいた項目も含めて、百近くの諧謔に富む文章を連ねたエッセー集である。

「なら」は万葉集で奈良、寧樂(樂は新字体では楽)、平城、平山、楢、名良、常山などと表記される。たとえば「あをによし ならのみやこは さくはなの にほへるがごと いまさかりなり」は「青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有」と書かれている。いわゆる万葉仮名である。著者は万葉集に出て来る《寧楽》という仮名が大好きで、これを外国に紹介する時に寧楽人、寧楽人的と造語したとのこと。そしてこれを書名とされた。

著者の藤野氏は私には初めて目にするお名前である。氏は神戸生まれ、東京で大学を出て、10年ばかりサラリーマン生活を送り、しばらく会社経営をした後、五〇歳を過ぎて奈良の高畑あたりに移住してきた。奈良を住処に選んだ氏の、万葉集との関わり、というか万葉集の読み方は独特である。
新聞を購読するわけでなし、頼りはテレビとラジオであり、その他の有力な情報源は、妻君の買物の後ろをついていき、今流行の商品や、物価を頭にメモしておく位なものである。[中略]
新聞の代わりと言っては失礼だが万葉集を読む。まだ鑑賞するところまでは行かぬ。早く言えば、奈良時代の、新聞を読んでいると思えばよい。この国を取り巻く環境もほぼ同じようなものであるから、ワープロで言う置換●●のキーを押せば、寧楽と現代はそんなに遠い話ではない。アメリカに敗れた記事は、唐に白村江で敗戦と読めばよいし、外来語が大いに流入して、国際化し奈良インターナショナルの時代であったのと、今の狂乱の東京とを比べてみるのもよい。(50頁)
冒頭の、奈良シルクロード博覧会の標語「夢、ロマン、NARA」を取り上げたエッセーで、新しい夢について論じ、そして、
次は、問題の「ロマン」である。これには一言あってしかるべしと信じる。元来、ロマンとは古代ローマ人の意で、ロマンスはその人達の言葉なりき。今だにNARAと記してローマ字●●●●だと称しているではないか。奈良とローマが姉妹都市になると歴史上は非常に都合がよいというのは、ギリシャ文明の継承者たるロマンと、大唐のそれに対応する寧楽人ナラマンであって、姉妹と呼べるかも知れない。寧楽人ナラマンはロマン(ローマ人)の妹なれど、我にも世界に誇るべき「万葉集」「古事記」(共に万葉仮名)「日本書紀」(漢文)があるによって、姉さまの風下に立つを潔しとせず。(7頁)
と述べ、続く「言葉そして文字」で、埼玉の稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれた151文字の漢字に「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の名が登場すること、この大王名が熊本の江田船山古墳出土の鉄剣にもあることに触れ、
ところで、この大王が大陸の方では、武王と呼称され、日本史上の雄略天皇に対応している。と言い、と呼んでも、元気のよい支配者を想像させるが、この御方が、「万葉集」の巻頭を飾ることになる。大和国は全て吾が支配する国であるぞ、と宣言しつつ、娘にどこの児だ、名は何という、と気を引いていらっしゃる。[中略]
万葉仮名の歴史は、こう見てくると魏志倭人伝の卑彌呼から約五〇〇年にわたる漢字文化との接触の中で、音を捜し、義を求めて苦難の揚句、「万葉集」に辿り着いたのでありましょう。
「万葉集」を巻き戻して行くことによって、倭語の原形と言うか、源流に至ることができるかもしれない。(8/9頁)
と、筆者の万葉集に対する関心の基を表明している。百に近い項目の中に、奈良の土地や寺社仏閣の話題もあるが、それも結局はユーモラスな言葉の話になるものが多い。パンスト、ウエイトレス weightless、貞操帯 Padova、ついには「きんたま考」もある。これは中学に入って英語を習うようになり、なんでも英語で言ってみようと友人同士でやる、あの遊びから話が始まる。
最初に思いついたのが、手っ取り早いところで、キンタマであった。割に簡単で既に知っている二単語を連結すればよく、ゴールド・ボールと一人が名付けた。すると、もう一人が、いや意味論から言わせてもらえば、ゴールデン・ボールが正しいと主張した。もう一人、文法と生態学にうるさいのがいて、結局、定訳はゴールデン=ボールズと言うことに決着した。それから、もう四十年以上経った。
最近になって、ふとしたことから我が輩は若き日の誤訳に赤面することになる。このキンタマは金玉でなく公玉が正しいらしい。確かに、あの玉は、御覧の通り金色に輝くような代物ではない。[中略]
それに漢字をよく観察すると、公の方が、二本の脚 ― 八 ― を開いた真中に何かぶら下がった格好になっている所から見ても公玉であると確信した。(174頁)
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いろいろな話題の中でポツリポツリと触れられた経歴部分を拾い出すと、著者は昭和8年、神戸に生まれた。第二次大戦が始まって、小学校五年生の頃に今治へ学童疎開、昭和21年、疎開先の旧制今治中学校に入学、「中学時代、新約と旧約が一冊になった英訳聖書を読み始めたが、もう止まらない。辞書を片手に休みなく、何日掛けても、最後まで読む」「中学生の頃、アメリカの宣教師から英語を教わった。一年間くらいであったが、個人教授であるから楽な勉強ではなかった」「中学へ入ると同時に英語と仏語を同時に学習し始め、それから以後の十五年間は主としてこの二カ国語との生活」を送ったという。
語学力には図々しくもかなりの自信を持っているが、これとて人様のように塾に通ったり単語帖を用意したり、カードの表裏に和洋の単語を書いて、歩きながらも学習するといった涙ぐましい努力をしていない。涙なき学習であるから、人を教えたりするのは下手である。恩師の先生方からは、近眼めがねのお世話にならずに語学をやる男と呼ばれた所から判じても、相当いい加減なのであろう。(193頁)
法政大学で英文学専攻、博士課程を修了している。大学で使用する英文教科書類の校正、英文学の個人教授などをしていたが、「仕官すること」の項によると、昭和35年ころ、仏国国営航空会社(**)に就職。「小生の英語と仏語に商品価値ありと早合点して、破格の好条件で雇用してくれた」。好条件となったのは面接に当たった「青い目の人事部長が、仏人でありながら英国で英文学を講じたことのあるシェイクスピア狂であったことで、当時、本多顕彰氏の下で沙翁の作品を読んでいた小生と意気投合し」たからだという。

東京での学生生活、サラリーマン生活、会社経営を経て、寧楽人となった藤野氏は、英仏語に際立った能力があり、英仏文学に造詣の深い人だが、
この寧楽にあって、また英文学や仏文学を読んで見ようとは思わない。それが遮二無二楽しみたくなったら、妻君を説得して英国か仏国へ移住すれば良いのだ。この説得は一筋縄では行きますまい。それに、仏国では英語の教師は勤まるだろうが、英国で仏語を教えるのは自信がない。仏教の話でも加味して時間を稼ぐしかないだろう。こんな不安定な収入見込では妻の方が居心地の良い寧楽から動きますまい。だから、当分は寧楽人の夢を食って生きる。(275/6頁)
ということで、氏は奈良の寺院で僧侶の講話の席に連なったり、「昭和六十二年の盛夏、勧学院にて本田先生に万葉集を講じて頂く」(***)など、言葉と文化と歴史に関心を寄せるナラマンチックな暮らしを続けられた。
倭国もかの島国(引用者註:イギリス)と似た様な状況にあったのであろうが、英国の場合、五世紀頃から大陸のアングル族、サクソン族、ジュート族たちが移住し始め約二百年かかって英国に定着することになる。[中略]
日本列島においても同様な事情であったのかも知れない。原住民がアイヌ以外にどのような混成になっていたかは不明であるが、文字を持たないアイヌは東北・北海道へ追われ、文字を持った人達が数多く、この列島へ移住し、定住したことは間違いのないところであろう。この文字を持った渡来人達の構成についてはこれからの研究課題でありましょうが、これを解明出来る有力な、美しくも華麗なロゼッタストーンと言うべきものが万葉集でありましょう。(277頁)
ロゼッタストーンの碑文は三つの文字、すなわち古代エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)、ギリシア文字で記述されていて、これが、それまで謎であったヒエログリフを解読する鍵となった。

そういえば万葉仮名には音仮名と訓仮名の二つの系統のものがあった。音仮名とは漢字の音によって表記したもの、波流(はる)、阿岐(あき)、伎弥乎麻都(きみをまつ)、加奈之可利家理(かなしかりけり)の類、もう一方の訓仮名は漢字の訓によって表記したもの、名津蚊為(なつかし)、春過而 夏来良之(はるすぎて なつきたるらし) の類である。藤野氏は音仮名と訓仮名の表記をデモティック文字とギリシア文字と見て、ヒエログリフたる倭語の原型を解明できないかと、寧楽人的・浪漫的アナロジーの魔法の翼を広げたのでしょうか。
* これは翌年、『現代・徒然草――夢なら寧楽人的に』(1988年、豊住書店)とタイトルを改めて再刊。また同年、二冊目のエッセー集『奈良なら寧楽 NARA NARA NARA』(1988年、長谷川読書会)が出版されている。
** エールフランスである。山田耕筰の長男山田耕嗣氏や歌人の岡見裕輔氏も同僚であったが、「語学力と言うよりは、その詩心につい仏人が心動かされて社員にしてしまったのであろう」(70頁)と言う。
*** 東大寺勧学院で、『万葉の碑』( 創元社 1982)などの著書のある本田義憲氏(1984年まで奈良女子大学教授)の万葉集講座が開かれたか。
[付記]
ちかごろ流行のキラキラネームを呉智英氏は《暴走万葉仮名》と呼んだ。言い得て妙ですね。月男(るなお)、騎士(ないと)、来夢(らいむ)、美姫(みゅうず)、女神(まどか)、璃依哉(りいや)、乃絵瑠(のえる)、未羅乃(みらの)、姫羅梨亜(きらりあ)などはまあ、夜露死苦(よろしく)や走死走愛(そうしそうあい)に通じるでしょう。万葉以来の「音を捜し義を求めての苦難」が今も続いています!