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メモ帳 -- 抄録、覚え (その4)



エンリケ伝説

ポルトガル王ジョアン1世の第五子(三男)として生まれたエンリケ王子 (1394-1460) は教皇によってキリスト騎士団の総長に任命された。これは廃止されたテンプル騎士団の領地・財産の一部を引き継いだ組織である。王子はその豊富な資金で遠征隊を派遣し、遠洋航海に適したカラヴェラ船の建造など造船術・航海術の進歩に貢献し、未知の領域だったアフリカ西岸の踏破を推し進めた事跡により、「エンリケ航海王子」と呼ばれ、大航海時代の幕を開いた英雄と讃えられている。

金七紀男『エンリケ航海王子』は伝説に彩られる大航海時代のヒーローについて、理想化され、神格化されたエンリケではなくできる限りその実像に迫ろうとした研究だ。王子の推進した探検はキリスト教布教の熱意による行動と言われるが、結果的にはポルトガルの海外植民の先蹤となったのである。この書には、冒険事業の背景である中世末期ヨーロッパの政治・宗教・経済の状況についても詳しく書き込まれている。例えばアフリカ航路の開拓の動機は香辛料を地中海ルートではなく求めるためだったというのが通説だが、実は「ポルトガル人が求めたのは胡椒ではなく西アフリカの奴隷と金だった」などなど、資料に基づく新しい知見が散りばめられている。

ある歴史家は、この金の争奪を「キャラバン隊とカラヴェラ船の争い」と呼んでいる。十六世紀初頭の最盛期には年間平均七〇〇キロの金がポルトガルに流入した。こうして一体は黄金海岸と呼ばれるようになるが、その東側に奴隷海岸があり、その西側には象牙海岸、さらに西寄りに胡椒海岸が続く。これらはみなポルトガルによって開発の対象となった商品名に由来している。(138-139ページ)
イベリア半島の国ポルトガルは種子島においてわが国と初めて接触したヨーロッパの国であり、先進文明とキリスト教を伝えた国でありながら、このときを除いて日本との交流は希薄である。エンリケ王子は「ヴァスコ・ダ・ガマと並んで日本で知られている数少ないポルトガル人のひとりであろう」(はしがき)と金七氏は言うが、現在ではそれも危ういかも知れない。さてわが国で王子はどれくらいの知名度があるだろうか。

戦後すぐに、大航海時代の先駆者としてエンリケ王子を取り上げたのは和辻哲郎である。和辻は『古寺巡礼』(1919)『日本精神史研究』(1926)『風土』(1935) などで大正・昭和期の青年層に大きな影響を与えた思想家で、戦後になって、『鎖国--日本の悲劇』(1950) を著したが、この中で近世初頭に海外進出をせず逆に鎖国をしたことを太平洋戦争敗北の遠因とし、積極的に海外進出を進めて「新しい認識の先頭にたった・・・航海者ヘンリ王子」を対置した。この書について金七氏はこう述べる。
和辻のエンリケ観は、エンリケあるいは「エンリケの精神」を直接、日本人の主体的問題として考察したところにその特徴がある。和辻は、太平洋戦争の敗北による省察から日本人の欠点を「科学的精神の欠如」であると規定し、その遠因を「一つの世界への動きが現れた近世にその動きを拒む態度」としての「鎖国」に求めた。
[中略](和辻の)エンリケ観は、日本の「鎖国」という視点から省察されるという独自性を有し、それゆえにエンリケの近代的側面が強調されることになり、その後の日本におけるエンリケ観に影響を及ぼした。(192-193ページ)
エンリケの「近代的側面」として、ポルトガルの最南西端にあるサグレスに学校、天文観測所、造船所を建設し、航海術や地図製作術に大きな発展をもたらした、と和辻は書いているが、「航海学校創設」は王子の死後形成された伝説で、イギリスに生まれフランスを経てポルトガルに輸入された経緯が追跡立証されている。本国の研究者(*)の「その本質的な部分はおろか枝葉末節においても真実のかけらすら含んでいない」(196ページ)という言明も紹介されている。「ザグレス学校」がフィクションであることは今や疑いをはさむ余地は無いのだが、しかしなかなかこの「学校伝説」が消えることはないようだ。

司馬遼太郎の『南蛮のみち』は戦国時代の日本にキリスト教と「南蛮の文化」を伝えたイエズス会士フランシスコ・ザヴィエルの足跡を追ってバスク地方から、マドリード、リスボンへと辿る紀行文であるが、旅程の最後にポルトガル最南端の岬サグレスを訪れて次のような感想を漏らしている。
「その高所からあらためて岬の地形を見、天測の練習に仰いだであろう大きな空を見たとき、ここにたしかに世界最初の航海学校があった、というゆるがぬ実感を得た。エンリケ航海王子関係の原史料がほとんど消滅しているため、サグレス岬に設けられた世界最初の航海学校というのは、じつに伝説にすぎない、という説があるが、おそらく論者はこのサグレス岬にきてここに立ったことがないのではないか。・・・ここに航海学校がなかったなどというのは、机上のさかしらのようにおもえてくるのである」(『南蛮のみち Ⅱ』「街道をゆく」シリーズ23、朝日文庫)
これに対して金七氏は言う。
私自身、サグレスには二度訪れた。そして航海学校があると言い伝えられたきた所は、南に向かって突き出した断崖絶壁の小さな岬である。あたり一帯は荒涼とした景色が広がり、人を寄せ付けない厳しさがある。エンリケがこのような不毛の僻地を選んだのは、開発したばかりの造船術や新発見の陸地や島の情報が他国に流れるのを恐れたからだと言われて来た。
しかし残念ながら、司馬氏の「ゆるがぬ実感」にもかかわらず世界最初の航海学校は存在しなかった。(あとがき)

  --金七紀男『エンリケ航海王子』(刀水書房 2004)
司馬遼太郎の歴史小説・エッセイでしばしばお目にかかる彼一流の「実感」も、時には破綻するのだと、感慨深いものがありますね。
* Duarte Leite: História dos Descobrimentos, colectânea de esparsos, Lisboa 1959
19世紀ナショナリズムの時代にポルトガルでエンリケ王子の英雄化・神格化が進むのだが、20世紀後半になってこのドゥアルテ・レイテに代表されるような冷静な実証的研究が生まれてきた。しかし「国外の研究者たちはポルトガル語の文献にあたって研究を進めることがないままに時代遅れの結論が無批判に取り入れられ、それが英独仏語による研究に限られていたこれまでの日本の西洋史研究にも受け継がれたのである」(207ページ)と金七氏は述べている。


女王クリスティーナ

スウェーデン女王クリスティーナ (1626-1689) は不思議な君主である。不可解な謎めく女性である。三十年戦争のプロテスタント側の雄グスタフ・アドルフの娘で、1632年、その父王の戦死により6歳で摂政補佐のもと王位につき、なお戦乱の続くなか18歳で親政に移行、プロテスタント陣営の盟主である君主ながら、カトリック勢力側に大幅な譲歩をして悲惨な戦争を終結に導いたとされる。結婚を忌避し、そして20歳のときには退位の計画を立て27歳でさっさと王位を去った。そのあとローマに移住してカトリックに改宗するのである。

彼女は「王座の女性哲学者」として全ヨーロッパに知られていた。幼いころから知識欲が旺盛で、ギリシャ・ラテンの古典書を読み始めた。女王としてはウプサラ大学の充実に力を注ぎ、外国からも優秀な学者を招聘し、稀覯写本蒐集のために古典学者を海外に派遣した。とりわけオランダ在住の哲学者デカルトを招聘したことが女王クリスティーナの「哲人君主」の名を高めた。ただ、この哲学者は数ヵ月後には亡くなったのである。学問に熱心でストイックな女王が真冬の早朝5時から、暖房のない書斎に毎週3回デカルトを呼びつけたのが、その死期を早めたとも言われる。

ヴォルテールは『ルイ十四世の世紀』でクリスティーナのことをざっとスケッチして、「女王でかつ思想家」という「稀有な人物」と評価する。
女王は八箇国語に通じ、デカルトの弟子で同時に友人。後者はフランスでは、年金にありつけぬのみか、たまたま卓見を吐けば、それが祟って、著書の発売を禁じられるというありさま、結局、ストックホルムの王宮で死んだ。女王は、自身の啓蒙に役立つ人物を、片端からスウェーデンに招聘。臣下の中に、それが少しも見当たらぬのを悲しみ、武弁ばかりを治めるのに、愛想をつかしたのである。無知や無能の人間に、傅かれるくらいなら、思索を好む人々と、交わる方がよいと思った。あらゆる芸術を奨励したが、これはこの国では破天荒のことに属する。イタリアを幽居の地に選んだのも、芸術が栄えていたため。これが芽生えの状態にあるフランスへは、通りすがりに立ち寄ったにすぎぬ。目的はローマにあった。そのため、ルッター派からカトリック教に改宗。どちらにも無関心なので、余生を送る国の人間と同じ信仰を、平気で装ったのである。
  -- 丸山熊雄訳『ルイ十四世の世紀(一)』(岩波文庫 1958)
クリスティーナの退位、改宗は当時の人々を驚かせ、後世にも大きな謎として残された。このような処世については、君主としてあるいは人間として評価が分かれるところである。ただヴォルテールが、芸術の栄えるローマで余生を送るための改宗で、新教・旧教「どちらにも無関心なので、余生を送る国の人間と同じ信仰を、平気で装った」と言うのは、いくら自由主義者で皮肉屋の口振りとはいえ気楽過ぎる放言だろう。

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彼女について我々はつとに下村寅太郎『スウェーデン女王クリスチナ』という、わが国で最初の(そして唯一の?)本格的な評伝をもっている。「俊敏な知性と強い個性のゆえに極めて劇的な遍歴をする」女王の全生涯を「バロック時代の精神史」に位置付け、結婚忌避から早すぎる退位、そして改宗へと進む過程が、筋の通った「誠実な魂の遍歴」として深く掘り下げて描き出されている。

彼女は幼いころより乗馬や射撃を好む男性的な性格で、かつまた聡明であった。
特に知識欲が旺盛で、しかも極めて理解力に富んでいた。学習を始める以前の幼年期に、すでにドイツ語を話すことができた。フランス語、イタリア語、スペイン語も「教師なしに」覚えた。[中略]ラテン語の勉強もはなはだ早期で、じきに古典書を学んでいる。ユスティヌスから始め、クルティウス、リヴィウス、カトー、アイソポスに到り、さらにキケロ、カエサル、テレンティウスに進んでいる。ラテン語で自分の意見を表現することができ、摂政官にラテン語の手紙を書いている。すでに十歳の時、師とラテン語で話すようになっている。[中略]後にギリシャ語も学んだが、「将棋でもおぼえるように」平易であった。
彼女の学問に対する情熱はたんなる知識欲ではなかった。信仰の根本に関わる懐疑から発していたのである。幼いころ、説教師から世の終わり、最後の審判について聞かされ、それはいつ来るのか、自分はどうなるのかと尋ねても、「熱心に祈りなさい」とだけしか答えられないことから、すでに不信が始まっていた。神の存在は疑わないが、真の宗教とは何かと問い続け、それは「すべてのものを、自己自身の不信をも、疑わねばならぬ」というところまで徹底したのである。女王の座についてからも、日常の用事・国務にたずさわる以外の一切の時間は学問に向けられている。
いかに国務に多忙な時でも、常に数時間は書斎で「死者と交際」した。「死者が私に生命を与え、生者が間断なく私に死をもたらす」とクリスチナはフォシウス宛(一六五〇年六月)に書いている。[中略]
もっぱら軍事的功績によって強大になったのにすぎないスウェーデンの精神文化を高揚すること、首都ストックホルムを「北方のアテネ」にすることが若き女王の「野心」となる。
スウェーデンの国威が最も盛んなときに、元老院や議会、全国民の反対を押し切って彼女はなぜ退位したのか。そしてなぜカトリックに改宗したのか。17世紀において一国の君主の改宗は現在では想像を絶する大事件であった。しかも三十年戦争で反カトリック陣営の盟主であった国の君主の改宗である。
改宗はクリスチナの全生涯を決定的に区画する事件となる。退位は未だ政治的事件であって、必ずしも普遍的な意味をもたない。単にスウェーデン国内の問題であるが、しかし改宗は精神史的事件であって、スウェーデンを超えた、より普遍的な事件である。
  -- 下村寅太郎『スウェーデン女王クリスチナ。バロック精神史の一肖像』(中央公論社 1975 / 中公文庫 1992)
これ以上『スウェーデン女王クリスチナ』の内容を紹介することは控えるが、ヨーロッパで出版された女王を巡る数多くの伝記、歴史家ランケ、神学者パストールなどプロテスタント、カトリック双方からの評価、またエルンスト・カッシーラーのスウェーデン亡命中の著作『デカルト』(その半ばがクリスティーナの改宗の動機の考察に当てられているとのこと)など、下村はそれらを仔細に検討して若き女王の宗教上の懐疑、学問の方向、かつ彼女が真の宗教を求める道程でのデカルト哲学の役割についても深い考察を加えている。

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ところが、クリスチーナを「貪欲な女王」「略奪的才女」と痛烈に弾劾する意見もある。それはイギリスの歴史家トレヴァー=ローパーで、その『君主と芸術家』の中で、三十年戦争の末期にプラハのルードルフ二世のコレクションがスウェーデン軍に略奪された事件に関して言うには、
一六四八年、最終的な大災禍が起こった。三十年間の宗教戦争ののちに、講和締結のまさに前夜にケーニヒスマルク伯のスウェーデン軍がプラハを襲撃して略奪した。この野蛮で不必要な振る舞いによって、ヨーロッパが生んだ最も豊かで奇想天外なコレクションが強奪され散逸してしまった。大部分はスウェーデンへ送られ、ケーニヒスマルク城とヴランゲル城を満たし、貪欲な女王を満足させた。
Finally, in 1648, came the great disaster. After thirty years of war, on the very eve of peace, the Swedish army of count Königsmarck stormed and sacked the city of Prague. By that brutal and unnecessary act, the richest and most fantastic collection that Europe had known was pillaged and scattered. The bulk of it was sent off to Sweden to fill the castles of Königsmarck and Wrangel and gratify the vulturine queen.
確かにスウェーデン軍のプラハ攻撃は「講和締結のまさに前夜」であった。しかし「野蛮で不必要な振る舞い」と言いきれるかどうか。講和交渉が始まってすでに5年、双方が軍事的に優勢な情勢で講和を結ぼうとずるずる長引いていた。プラハを占領し、ウィーンに迫る勢いを示したとき、皇帝側はようやく講和締結に応じた。大幅な譲歩をしての講和にはスウェーデン国内で強力な反対があり、グスタフ・アドルフ亡きあと国政をリードしてきた宰相オクセンシェルナは抗議の辞表を出した。そういう状況下、女王は自分の意思で講和を貫徹したのだ。
しかしもしあの哲学の芸術的具現が、わたしが示唆したように、ルードルフ二世の芸術品展示室に見い出されるとしたら、それにとどめの一撃を与えたのは、あの恐るべき女性、デカルトに心酔した王女であり、北方の王冠をいただいたじゃじゃ馬にして略奪的才女、スウェーデン女王クリスティナであったと言えるであろう。
But if the artistic embodiment of that philosophy is to be found, as I have suggested, in the art-gallery of Rudolf II, then we may say that the coup de grâce was given to it by that dreadful woman, the Cartesian princess, the crowned termagant and predatory bluestocking of the north, queen Christina of Sweden.
-- Hugh Trevor-Roper: Princes and artists : patronage and ideology at four Habsburg courts 1517-1633 (1976)
彼女にはストックホルムを「北方のアテネ」にする「野心」があった。下村の言うように「芸術品の情熱的な蒐集もこれに関連する傾向にある。これは単にクリスチナの美的趣味に留まらず、ルネッサンスの君主たちと同一の性格のものだろう。当代の君主の任務であった」と見るのが普通だと思われる。確かに、マニエリスム美術のほか、ルードルフ二世の類のない貴重な蒐集の「略奪」ではある。しかし当時の戦争では珍しくないこの行動に対して、イギリスの歴史家が容赦ない罵声を浴びせるのは、なぜなのだろうか。

『君主と芸術家』はハプスブルク家の4人の君主を取り上げ、その芸術保護と宗教的信条との関連を歴史的にたどった著書で、すでに邦訳がある。
  ヒュー・トレヴァー=ローパー著、横山徳爾訳『ハプスブルク家と芸術家たち』(朝日選書 1995)
上の対訳にはこの訳文を使わせて頂いた。



バドワイザーと仏陀

チェコのピルゼンといえばピルスナー・ビール Pilsner Bier で知られる。
ビールを大きく製法で分けると上面発酵の「エール」と下面発酵の「ラガー」になる。古代ゲルマン民族の習俗について書き記したタキトゥス『ゲルマーニア』(泉井久之助訳)では「飲料には、大麦または小麦より醸造られ、いくらか葡萄酒に似て品位の下がる液がある」として、すでにビールに言及されているが、北方ヨーロッパの2千年を超えるビールの歴史で、それは日持ちのしない、醸造して数日中に飲み終える「エール」が主流であった。

13世紀のハンブルクで、たまたま地中に埋めたビールを5年後に取り出して飲んだら大変美味だったので、「ラガー(貯蔵)ビール」が生まれたという伝説(*)がある。要するにラガーは、氷を詰めた室などの冷暗所で寒い冬に仕込まなけなければ造れないビールであった。有名なミュンヘンの、三月に仕込む「メルツェンビール」Märzenbier はこれにあたる。

1842年、チェコのピルゼンでミュンヘンの醸造職人を招聘、ボヘミア産の麦芽とホップ、そしてミュンヘンの酵母を使って下面発酵のビールを作った。すると、ミュンヘン・ビールの色の濃いコクのあるものと違って、明るい琥珀色のキレのいいものができた。ピルゼンの軟水がこのような効果を引き起こしたらしい。この製法による「ピルスナー」 Pilsner がブドヴァイスなどピルゼン以外のチェコ各都市に広まり、ミュンヘンでも「ピルスナー」が造られ、やがてアンモニア式冷凍機の発明もあって、ヨーロッパのビールはラガーが主役となった。

19世紀後半、ドイツ系アメリカ移民がビール醸造に乗り出し、Budweiser の商標をつけて発売した。これが20世紀の初めに商標権を巡る訴訟となり、チェコ側が北米および米国保護領に限り商標権を放棄することで一旦は合意が成った。千野栄一『ビールと古本のプラハ』によると、
このチェスケー・ブジェヨヴィツェ(ボヘミアの「ブジェヨヴィツェ」の意)の町のことをドイツ語でブドヴァイスという。そして「ブドヴァイス産の」というとき、ブドヴァイゼルとなる。ここまでくればアメリカのバドワイザーと同じことに気がつく。そこでこの両者でブドヴァイスの名称を巡って裁判がおき、「四十年もすでに使っている」というアメリカの主張に対し、「こっちではもう四〇〇年」と反論したというのがチェコの自慢であった。裁判はバドワイザーはバドワイザー、チェコ側は昔からのブドヴァルを使うと言うことで収まったようである。
しかし、その後もアメリカ企業が世界各国で「バドワイザー」の商標登録を行い、本家に商標買い取りを提案するなど、世界中で特許や商標権の係争が続いていて、どうやらまだ決着がついていないようなのだが、それはともかく言語学者でチェコ語・スラブ語の専門家である千野氏の本でえっと驚かされたのは次の箇所である。
この町の名は古いインドヨーロッパ語の語根 bud- からきていて、「目覚める」というのがその元の意味である。現在のチェコ語でブジークあるいはブジーチェク、ロシア語でブジールニイクは「目覚まし時計」を意味する。そして、これは「仏陀」という形で古代インド語から中国語を経て日本語に入っている。仏陀というのは目覚めた人、覚醒した人、悟った人という意味である。そこで、「バドワイザーや、ブドヴァルのビール、目ざまし時計が親戚であるとはお釈迦さまでもご存知あるまい」と、いうことになる。
  -- 千野栄一『ビールと古本のプラハ』(白水uブックス 1997)
バドワイザーが仏様とつながりがあるとは知らなかった。しっかりビールを飲めば仏道を極めることができるのでは、とは凡夫の感想。ちなみにタキトゥスの『ゲルマーニア』では上の箇所に続いて、ゲルマンの人々は飲酒に対して節制がないので「彼らの欲するだけを給することによって、その酒癖をほしいままにせしめるなら、彼らは武器によるより、はるかに容易に、その悪癖によって征服されるであろう」としている。凡夫はビールで悟りを開くどころか悪鬼に征服されるか。
* 春山行夫『ビールの文化史1』(平凡社 1990)による。


ホップの文化史

ビールは発芽した麦をアルコール発酵させた酒で、文明の揺籃期からある歴史の古い飲料だが、初めは濁った粥のような甘酸っぱい飲み物であったと想像される。これに薬草やスパイスを加えることは古代からおこなわれたが、ようやく千年ほど前に「ホップ」を使うようになって、今日のビールの風味が生まれたのである。ホップ(学名:Humulus lupulus)はアサ科のつる性多年草。雌雄異株で雌株の毬花に、ビールに苦味と香りをつけ、保存性を高める物質が含まれている。

詩人で文芸評論家で編集者、そのうえ百科事典的な文化史家と呼ぶべき春山行夫は料理・飲食についてもその博学ぶりを遺憾なく発揮した。彼の『ビールの文化史』(*)は紀元前数千年に遡るビール発祥から書き起こし、ギリシャ・ローマ時代、古代ゲルマンから中世へと歴史を辿りながら、材料・醸造法のこと、エールとビール、僧院・大学とビール、また居酒屋のことなど、ビールを巡る多くの史実や記録や言い伝えを紹介している。その中から、ここではホップにまつわるいくつかのトピックを抜き書きしてみる。

[ホップの出現]
西暦七六八年に書かれたフランク王小ピピンの贈遺書にパリに近い聖ドニ僧院にホップ園を授けると記されているのが、最も古い記録として知られている。

ホップ園の記録は七六八年が最も古いが、ドイツではその頃、フライジングの修道院の近くにホップ園がつくられていたという説があり、ドイツでのホップで味をつけたビールの記録は、この修道院のものが最も古いといわれている。
[版画に描かれたビール醸造]
ヨースト・アマンの版画にハンス・ザックスが詞文をつけた『この世のあらゆる身分、貴賎、聖俗、あらゆる技、職、商の真の描写』 Eygentliche Beschreibung aller Stände auff Erden, hoher und nidriger, geistlicher und weltlicher, aller Künsten, Handwercken und Händeln(**) は、法皇、枢機卿、皇帝、国王から床屋、画家、楽師そして乞食に至る、当時のあらゆる身分・職業を網羅した有名な版画集、その中に「ビール醸造人」もあって、これが引用されている。
[この版画は]一五六八年にドイツで出版された『職人画づくし』に出ている一枚で、この版画集には、ヨースト・アンマンの版画百十四枚に、詩人・戯曲家ハンス・ザックスの八行詩がついている。この時代のビール醸造者の画はほかにないので、フランスやイギリスのビールの本でも、この版画を転載している。ビールに関する本のなかで、いちばん多く用いられている版画である。ビール醸造者の詩は、
  大麦で私は上等のビールを煮る
  よく肥えた、うまい、ほろにがいやつができよう
  口の広い、銅の大釜に
  ホップを投げ込む。
  それが煮えたら、次は冷やして、
  タガをしっかりしめ、ピッチを十分にぬった
  大桶にそれを注ぐ。
  やがてそれが醗酵してビールができあがる。
といった意味である。
[文献にあらわれたホップ]
『ビールの文化史1・2』にはビールに関する東西の文献が広く深く渉猟されていて驚くばかりだが、ビールに加える薬草やスパイス、ホップに触れた書物だけでも数えきれないほどだ。
ドゥ・カンドル『栽培植物の起源』(1883) のような専門書でも、「ホップでビールを醸造することは、中世にやっとひろまったもので・・・」

C・フルウィルト博士の『ホップ処理場とホップ処理法』(ベルリン 1908) によると「ホップの栽培がヨーロッパの中部で、今日のフランスとバイエルンではじまったのは八~九世紀からで、小ピピンが聖ドニの僧院に贈ったことが知られている」と述べている・・・

ウィリアム・パターソン編『農産物』(四巻 1925)に「ホップ」を寄稿したA・H・バージェスによると「一三〇〇年頃まで、ホップ栽培は主として僧院だけで行われ、大部分は医薬に用いられていたらしい。その頃からドイツでそれをビールに用いるようになったので、ホップ園が各地にひろがった」とみられている。

イギリスの詩人チョーサーの作品に、丁字石竹(カーネーションの祖先)とニクズクをビールに入れたことがでているが、[中略]
詩人の北原白秋は酒場で上機嫌になると、花瓶のカーネーションの花をとってむしゃむしゃと食べたので周囲の人々がおどろいたが、白秋は西洋の中世に、この花をビールに入れて飲んでいたことを誰れかから聞いていたのかもしれない。

『ビール醸造の技術と科学』(英 1949)の著者C・A・クロスによると、中世にビールの味付けに用いられていた薬味は、トウガラシ、甘草、西洋ワサビ、オランダゼリの実、ニガヨモギ、明礬、リンドウ、カキトオシ、カキ殻の粉、アロエ、マツの樹皮、ヤナギの樹皮からホップのようなものまでが使われたが、ノルマン人がイングランドを征服した時代まで、ホップは評判が良くなかった、と述べている。

わが国のツルハナソウ(唐花草)はそれ[ホップ]の変種で、「雌花の小苞ならびに萼に黄色の細腺粒が付着し、佳香を放ち、味にがく、その点、母種のホップ、すなわちセイヨウカラハナソウと異ならず」と牧野博士の『日本植物図鑑』に記されている。
ホップの名称についても、イギリスの植物学者ロードンとフーカーの説を紹介し、フランス語の語源辞典をひも解き、その変遷を追っている。そして、「なおローマのプリニウスの『博物学』にでているルプスという名称は、のちスエーデンの博物学者リンネが植物分類学の基礎をつくった時、ホップの品種名に採用し、属名のフムルスとあわせて Humulus lupulus と呼んだ」のが現在の学名の由来と説明している。
『食餌療法』(1542)を著したアンドリュー・ボールドは・・・「麦芽と水でつくったエールはイギリス人のための天然の飲み物であるが、麦芽とホップと水をまぜてつくったビールはオランダ人の飲みものである。近来イギリスで多く飲用されるようになって、たくさんのイギリス人に被害を及ぼしている。その理由はビールは冷たい酒なので、腹痛をおこし、結石を生じて死にいたらしめるからである。そのうえ、人を肥満させ、ドイツ人のような顔色と太鼓腹にする」といって、真向から反対した。

一五七四年には、世界で最初のホップ栽培のパンフレットがイギリスで刊行された。標題は『ホップ園の完全な教壇』で、[中略]巻頭に四ページにわたって、「ホップは労働者の勤労に報い、主婦には必需品(註、サラダの味付けや胃のクスリになる)を与え、貧民には慰安を、国家には利益をもたらす」こと・・・

ダニエル・デフォーが『大英国周遊記』(1724-26)を書いた初期には、「イングランドの北部では、うすい、口あたりのよい、ホップの不要なエールが飲まれていて、トレント川以北ではホップを栽培する者はいなかった」といっているが、・・・

トマス・タッサー『よき農事・家政への五百の忠告』(1573)は・・・そのなかにもホップの栽培法が二行連句の四行詩で書かれていて、ホップの歴史ではみのがしがたい記録となっている。[中略]
  ホップは役にたつので、私はとりあげる
  それは麦芽に協力して、飲みものに力をつける。
  よく醸造したものは味が長く保ち
  急いで飲んでしまわなければ、いつまでもおいておける。
とその効能をあげている。

さらに、ジョン・ジェラード『本草書または植物の歴史』(1597)やジョン・パーキンソン『地上楽園』(1629)や、「ホップをほどよく入れたものほどながくもちこたえる。もしきみのつくるエールが一週間保つとしたら、ビールはホップのおかげで一ヵ月保つであろう」と述べられているウィリアム・ハリソン『イングランドの描写』(1577)の紹介が続くが、引用はこのあたりまでにしておこう。

* 春山行夫『ビールの文化史1・2』(平凡社 1990)
  引用にあたって部分的に省略した箇所があることをお断りしておきます。
** Wikisource ですべて版画と詞文を見ることができる。
  → Eygentliche Beschreibung Aller Stände auff Erden


西洋事物起原

18世紀啓蒙主義の時代にドイツで新しい学問分野を開拓した人物がいた。北ドイツに生まれゲッティンゲン大学で初め神学を修め、そのあと進路を変更して数学、物理学、自然学を学び、ペテルスブルクで高校教師を勤めた後、ウプサラに遊学、ドイツに戻ってゲッティンゲン大学で経済学教授となったヨーハン・ベックマン Johann Beckmann (1739-1811) である。

従来から手工業や工芸の各分野で、それぞれの製作・加工に関する「技術」 Technik が研究されてきたが、これらを横断して貫く技術一般の研究をベックマンは「技術学」 Technologie として確立したのである。また原材料が製品となり販売、消費されるまでの過程をトータルに研究する学問「商品学」 Warenkunde を創設し、これはいまも大学商学部で必須の専攻科目であろう。

彼はまことに啓蒙主義時代の申し子と呼ぶべき人間だ。当時はイギリスでもフランスでも知識を集大成するという企画が進められ、フランスではディドロとダランベールらが中心となって有名な『百科全書』が編纂されたが、それは100名を超える知識陣を集めて執筆されたもの、「発明」というキーワードに限ってであっても、ベックマンは単独で挑戦し、実に25年をかけて『発明の歴史論集』全5巻 Beiträge zur Geschichte der Erfindungen (5 Bände, 1780-1805) の刊行を成し遂げたのである。

出版から二百年を経た大部の著作ながら邦訳がある。英訳はベックマンの没後早々に出版されたが、増補改訂された英訳第4版(1846年)を底本としてダイヤモンド社から3巻(1980,81,82年)で、後に岩波文庫からも4巻(1999年)で出ている。これは偉業と呼ぶべき仕事だが、特許庁内に研究会を組織して分担翻訳したという珍しいカタチの所産、確かにこの書に最も相応しい翻訳チームであろう。訳者代表の富田徹男氏は、ドイツ独特の官房学を背景として「内容が当時の全ての技術分野にひろがっていること、電気及び合成化学で代表される近代工業が発生する以前のヨーロッパの技術を問題としていること」「もう一つの特徴は文献学的な精緻さである」ところにこの書の意義を見ている。

原著は「発明の歴史」と銘打たれているが、邦訳の「事物起原」というタイトルの方が内容を的確に表しているように思える。鉱工業や農業の生産技術、栽培技術、商業、行政にわたる技術一般、モノの分類・命名法、金融、会計システム等々に至るまで、扱う項目は実に多種多様である。その一部を抜き書きしてみると、
イタリア式簿記/楽譜の書取り機/金メッキ/街路照明/カレンダー/リボン織機/大時計と携帯時計/保険/図書目録/着色ガラス/馬車/水時計/パイナップル/拡声器/封蝋/カナリア/製粉機/鷹狩り/印紙/人造真珠/街路の舗装/自然物の収集/煙突/コルク/薬種商/検疫/筆記用ペン/鞍、あぶみ、蹄鉄/いかだ/群青/レース/七面鳥/バター/金融業/金属の化学的名称/鏡/石鹸/手品師、綱渡り芸人/機械人形/夜警/人工氷、酒の冷却/為替手形/錫メッキ/消防ポンプ/藍/野菜/靴下編機/鉛筆/フォーク/富くじ/孤児院/病院、廃兵院/硝石、火薬/蒸気機関・・・
-- 岩波文庫版『西洋事物起原(一)~(四)』 目次から抜粋
ベックマンは大学を修えてオランダに研究旅行に出たおり、各地の植物園、博物資料を見て歩きながら、ライデンのロッジでフリーメーソンに入会(*)したという。これも啓蒙主義時代らしいと言える。ペテルスブルクのギムナジウム教師を勤めたあとスウェーデンに赴きウプサラを訪れたのは、リンネから植物分類学を学ぶためであった。1765年から66年の6月までリンネの教えを受け、家族とも親しくなった。ドイツに帰ったあとも書簡で新種と思われる動植物の情報を師に送っていた。彼がゲッティンゲン大学に招聘されたのも、学長ミュンヒハウゼン Otto von Münchhausen に宛てたリンネの推薦状が後押ししたのだろう。ミュンヒハウゼンも植物学者であった。

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卓越した科学者でありまた機知あふれる警句集「控え帖」Sudelbücher(**) を残したことで有名な物理学教授リヒテンベルク Georg Christoph Lichtenberg (1742-99) もゲッティンゲン大学の同僚で、あるとき、紙の寸法の起原についてベックマンに問い合わせの手紙(***)を送っている。日ごろ用いる紙は幅と長さが 1 : √2 の比で、半分に切っても幅と長さの比が元と変わらないようになっているが、こうした寸法はどこからきたのか、あるいはドイツの紙製造職人が自ら考案したのかご教示頂けまいか、との依頼である。

この縦横比は現在もA版、B版などのサイズの基準として踏襲されているが、この見事なシステムは誰がどこで発明したのだろうという問題で、あらゆる分野の技術の起原に詳しい同僚と見込んでの問い合わせである。ベックマンがこれにどう答えたのかは不明、『事物起原』で紙の寸法の由来について扱う項目は見当たらない。

ベックマンが亡くなった時、同じくゲッティンゲン大学の同僚で、古典文学・言語学者ハイネ Ch. G. Heyne (1729-1812) はアカデミーでの追悼の辞において「彼は科学の話を古典文学の感覚で融合」したと述べたことを、英語訳出版にあたったヘンリー・ボーンが記している。富田徹男氏の指摘する「文献学的な精緻さ」も同じで、まさにベックマンの業績の特色を言い当てた言葉であろう。一つのモノについてあらゆる文献を渉猟して詳細に記録する彼のスタイルは、自然科学と言語学をまたぐ「学際的研究」と言えるかもしれない。後世に「ギリシャ・ラテン語が多すぎて誰も読まない」と非難されることになったが。
* 1762年11月26日 (Wikipedia.de による )
** 邦訳がある。
  池内紀 編訳『リヒテンベルク先生の控え帖』(平凡社ライブラリー 1996)
*** 1786年10月25日付


ホップの起原

前項で取り上げたヨーハン・ベックマン『西洋事物起原』には「ホップ」の項目もある。ビールの歴史を書くのは「ギリシアおよびローマの著書に載っているさまざまな穀物が何であるかを詳しく説明することが必要」でこれは「困難で退屈な仕事」だから「ホップがいつ、どこでビールの添加物として使われ始めたかという問題にだけ答えるにとどめたい」と、さすがの彼もビールの起原に関しては範囲を絞って射程を短くしている。

ベックマンは、最近の植物学者の中にはギリシアやローマの著書を渉猟してホップを見つけ出そうと試みる人たちがいる、ディオスコリデスやプリニウスの取り上げた植物をこれがホップではないかと推測する者もいるが、いずれも根拠薄弱で、つい最近まで用いられていなかったと考える方が当を得ているようだとしている。ホップの学名 Humulus lupulus の属名と種小名いずれもさほど古い語ではないが、両語のうちでは「humulus の方が古く、ビールにこの改良を最初に施した者がつけた名前だと思われる」として得意の語源探索を行っている。
スウェーデン語とデンマーク語の humble および humle、ボヘミア語の chumel、フランス語の houblon、そしてスペイン語、ハンガリー語、ペルシャ語の名前はすべて同じ語源をもつものと思われる。後期のラテン名 humelo, humolo, humulo, humlo もやはりそうだと思われる。lupulus という語が出現したのは、さらにもっと後になってからのことである。英語でももちいられているドイツ語の単語は、最初 Hoppe と書かれたようである。後になって、普通行われているように、pp が無声子音の pf に変わることにより、高地ドイツ語の Hopfen ができた。同じようにして Toppe から Topf (壺)が、Koppe から Kopf (ます)ができたのである。私が知る限りでは、この Hoppe という語は、十世紀のものと思われる辞典に初めて載っている。この辞典には Timalus, Hoppe および Brandigabo Feldhoppe が載っている。timalus は bumulus を誤って写したのだと私は推測しているが、brandigabo については何の説明もできない。たぶん brace または bracium からきているのであろう。brace はプリニウスが知っている語である。bracium は同じ辞典に麦芽を翻訳するときに出てくる。
時代をたどってイシドルスやアラビア人医師メスエなど様々な文献を取り上げ、それらの記述からホップをビールに加えたということは証明できないが、カロリング王朝時代になるとホップが知られていたことは確かで、十世紀、十一世紀の教会や修道院に届けられた物品のなかにこの語がしばしば出てくるようになり、十三世紀になるとホップ園、ホップの届物がさらに頻繁になり、ビールに使用されたことは間違いないとみている。

種小名 lupulus については「十三世紀よりも前にホップに lupulus という名がつけられているのを見たことがない」とする。そして、ヤヌエンシスという十三世紀の終わりに活躍した医師(*)で司祭の著書『カトリコン』(当時使用されていた薬用物質をアルファベット順に網羅している)に lupulus が項目の一つとして取りあげられていること、同じころA.d.V.ノヴァがその食餌療法の本で lupulus をビールの醸造に使うと語っていると指摘する。

オランダではホップは十四世紀初頭に初めて使われるようになった。その頃にグルートの消費が減ってグルート税からの収入も減少したという不平がたくさん見られることからわかるという。グルートとはホップが普及する以前の、ビールに風味をつけるため様々な薬草を調合したものとされるが、この語についてベックマンは、
gruit という語は多くの意味をもっているようである。第一に、この語は麦芽を意味する。以前私は、この語が本当に麦芽を意味すると考えていたし、私の見解に賛同した者もいたが、さらに調べてみると、私にはこのことを完全には証明できないことを認めねばならないのである。第二に、この語は醸造するごとに払われた一種の税を意味した。第三に、十四世紀にビールに用いられたある種の植物添加物を意味した。最後に、これを加えて醸造したビール自体も時に gruit と呼ばれたのである。
と、以前の自説を修正しつつ考証している(**)。ホップビールはアルコール度数が低くても腐敗せず、そのために少ない麦芽でたくさんのビールをつくることが可能となったこともあって、ホップが広まるにつれグルートビールは衰退していったが、最近は往古の味を求めてベルギーなどで再び生産されているようだ。

ところでホップの原産地についてベックマンは、師であるリンネの説に異論を唱えている。これは彼の広範なフィールドワークに基づくコメントである。
一七七六年、リンネがあえて推測したところによれば、ホップ、ホウレンソウ、アカザ、タラゴンなど、多くの園芸野菜が、ゴート人が移動をしていたときに、この人々によりロシア、とくにウクライナからヨーロッパに持ち込まれたのだという。その理由は、昔の著者はこのような植物を何ら記述しておらず、ウクライナ地方では、これらの植物全てが現在、野生しているということにある。しかし、ホップはドイツ、スイス、イングランド、スウェーデン、そしてホップの栽培が今日でも行われておらず、ホップ畑とかホップ園から運ばれてきて、偶然に野生化したとは考えられない国々でさえも、至る所で野生しており、したがって、ホップがヨーロッパに元から生育していた植物であることは間違いない。
-- 岩波文庫版『西洋事物起原(四)』
最後に蛇足を一言付け加えさせていただく。ホップが普及しはじめた当時の状況に関してベックマンは、「ホップの良い作用と悪い作用を論じた最も昔の著者たちは、その悪い作用の中に、体を干上がらせ、憂鬱にさせるという作用があると考えている。しかし、良い性質として、飲料を腐敗から護る性質があると称賛している」と述べている。「体を干上がらせ」は「体を乾にさせ」と訳すのがいいかも知れない(***)。それはともかく、この箇所の原注に、
St.Hildegard, Physicae, lib. ii. cap. 74. Petro Crescentio d'Agricoltura, lib. vi. cap. 56. この著者は十三世紀の人である。
と、聖ヒルデガルト『自然学』を出典として挙げている。「この著者は」もちろん十三世紀ではなく「十二世紀の人」である。原著が誤っているのか、英訳あるいは和訳の誤りか・・・
* Januensis de Balbis (John of Genoa) は Wikipedia 英語版で »an Italian grammarian and Dominican priest« とあり、イタリア語版でも »grammatico e teologo« とされていて医師との記述はない。
** キリンビールのサイト「キリンビール大学・史学部」の『中世ヨーロッパ前篇』で、「複数のハーブを配合したもの」を総称して「グルート」と呼んでいます。醸造の際に、ハーブを粗く砕いて使用することから「粗い=grob」が名前の由来という説もありますが、確かなことはよく分かっていません」と説明されている。
キリンビールの研究所で、出来る限り往時の材料と道具を用いてグルートビールの復元に挑戦した記録が「ビールのルーツ研究所」で報告されている。
*** 「拾遺集、伍」 「ヒルデガルトの自然学 Physica」 を見られたし。