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メモ帳 -- 抄録、覚え (その9)


パンの文化史

図書館の文庫本コーナーで『パンの文化史』というタイトルが目に留まったので、借り出してきた。最初の数ページ読んだだけで、これはすごい! と心中で感嘆の声を挙げた。わが国にムギが伝えられた時期、米食社会におけるムギの食べ方、ポルトガルからキリスト教宣教師とともに到来したパン受容の歴史、「パン」という訳語のことから話を起こし、パンと呼ばれる穀物食の定義、世界のパンの起源と伝播、粉の引き方、焼き方、その歴史的推移などなどを、膨大な文献(学術研究のみならず民話、文学、美術作品まで)を渉猟し、かつ長期のフィールドワークによって調査研究した、まさに『パンの文化史』という名に恥じない労作である。

パンの素材となるのはムギ、アワ、ヒエ、キビ、トウモロコシなどの穀物、ここにコメも含まれる。世界にはパン生地を発酵させないで焼く地域と、発酵させてから焼く地域がある。コメがふつう粒のまま食べられ、ムギは粉食されるのはなぜか。「コーン」という単語はアメリカではトウモロコシだが、イングランドではコムギを指し、スコットランドではオートムギ(エンバク、カラスムギ)を指すこと。ドイツでは「コーン」(コルン)がどの穀物(*)を指すかは決まっていない。国や地方によって日々のパンとなる穀物を「コーン」と特別に呼ぶのだということ。

コムギが栽培できる地方では白パンがつくられ、黒パンは耐寒性にすぐれたやせ地でも栽培できるライムギを材料としている。ロシア、ポーランド、北欧、ドイツ、オーストリア、スイスなどである。さらに厳しい自然環境で生育するエンバクで作るパンも黒パンだ。北フランス、スコットランド、アイルランド、アルプス山中などである。しかし現在ではパンの材料はコムギとライムギに絞られている・・・などなど。

実際に農家に住み込んでパン焼きを観察した「パンを焼く村を訪ねて」の章がこの書の圧巻だが、関心のある向きには直接本書に当たってもらうとして、以下、私が興味をひかれた箇所を気ままに書き抜いておく。

* * * * * * * * * * * * * * *
中世になっても、パン屋のない農村では、パン窯で自家製のパンを焼いていたが、都市では、パンはパン屋で買うか、あるいは家でこねたパン生地を、パン屋へ運んで焼いてもらうか、どちらかであった。その事情は都市によって異なるが、行政上の制約や、防火のために、一般にはパン窯の所有は限られていた。そのためストーヴや暖炉も、台所の炉と並んで、簡単にパンや菓子を焼く場となっていくのである。
居間のことをドイツ語でシュトゥーベ(**)と言う地方がある。英語のストーヴで分かるように、居間とは必ずストーヴを備えた部屋のことだからである。(136/137頁)

明治期に我が国に現れた箱状のオーヴンは、火鉢の上にのせて使うものであった。箱の外側、てっぺん(縁がついている)にも炭をのせた。だから「天火」なのだ。それまでのカマドでは、火とはいつも下にあるものだったから、当時の人びとの驚きが伝わるような命名である。(151頁)

では航海にもちいられたこのビスコッチョとは、どんなものだったのだろうか。コロンブスは残念ながらそのつくり方は記していないが、この「二度焼くパン」は、この時代にかぎらず、古くはギリシャのアテナイオスも、「ディピュロス〈二度焼きパン〉は贅沢なパンだ」と述べてあった書物を紹介している。そしてこれは現代も健在なのだ。
ドイツ、ヴェストファーレン地方に伝わる、クナッペルン〈カリカリと食べる〉と呼ばれる、「二度焼きパン」の例を紹介しよう。これはドイツで一般にはツヴィーバック〈二度焼き〉と呼ばれているもの。まずパン窯で水分の多いコムギの発酵パンを焼く。焼きあがるとすぐにフォークで小さくほぐし、それをもう一度パン窯の余熱の中へ重ならないように並べ、わざわざかりかりになるまで焼く。ナイフで切ると、パンがつぶれてしまい、二度焼きしても堅くなってしまうから、フォークでちぎる。焼きあがったら木箱かブリキ缶に入れ、よく乾燥した場所に保管するという。(153頁)

マリア・ルカウ村の人びとは小さいときから母親のパン焼きを見て育ち、時には「薪の小屋」
[窯の中に縦横に組み上げる薪] づくりのお手伝いもした。なのに、テレジアはパン焼きを姑に習ったという。[中略]
たとえばテレジアの実家は二段式で、婚家に来ると丸天井型であった。別の人は実家が電気で、婚家が二段式であった。いくら実母がパンを上手に焼く人でも、姑に習わなければならなかったわけである。[中略]
パンを焼くには、パン窯をあらかじめよい温度にしておけるかどうかがポイント。パンを釜の余熱で焼くという仕組みが、姑と嫁の間にパン文化の伝承を育むことになったと考えられるのである。(218/220頁)

ブレッツェルのつくり方は、小麦粉、塩、水をこねた生地を紐のように伸ばして「め」の字に似た形をつくり、塩水でゆでてからナトロンラウゲ(苛性ソーダ)液にくぐらせ、表面に粒塩を振りかけてパン窯で焼く。[中略]
愛嬌のある形をしているが、その由来は、死者が埋葬されるときに副葬された指輪、腕輪、首輪などが元になっている(***)らしい。死者送りに持たせた本物の腕輪の代わりに、小麦粉でつくったものを、葬式で参会者に配るようになったのだという。ブレッツェルは、英語のブレスレット〈腕輪〉と同根の言葉。他説には、修道士が両腕を組んで神に服従の意を表すときの形から〈小さい腕〉にちなむとも。(226/227頁)

[グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」では] 魔女はヘンゼルがちっとも肥らないのに業をにやし、いよいよヘンゼルを煮ることにする。同時にパン窯でパンも焼き、ついでにグレーテルも焼いて、ふたりとも食べてしまおうともくろむ。しかしグレーテルは魔女を騙してパン窯に押し込め焼いてしまう。[中略]第四版までは、子どもをパンシャベルに載せて、パン窯の中に送り込む。これは前章でみたように、「薪の小屋」を組むときに子どもがさせられる仕事であった。「入りな!」と言えばすぐつうじるほど、子どもの日常的なお手伝いなのだ。(231/234頁)

中世社会の白パン用の粉は、小麦粉を一度だけ挽き、目の細かいふるいにかけた、上質の粉であった。白パンとは、このきめ細かい粉でつくったものだけを指していた。一方、そのふるいには、フスマや目の粗い粉が残る。こちらでも色の浅黒い二級品のパンがつくられた。その他、エンバクパンやライムギパンなどもあったが、どれも浅黒い色をしているので、白パンにたいして黒パンと総称されていたのである。(246頁)

[パン焼きの近代化] もうひとつ、私たちになじみのフランスパンの方も、昔は皮がぱりっとしていたわけではない。フランスパンのように、中身がふっくらして、皮はぱりっとしたパンを焼くには、特殊な蒸気を出したり止めたりできるオーヴンがなければならない。フランス産のコムギはグルテンが少ないので、この粉でパンをふっくらふくらますには、焼き初めに、パン窯に蒸気を大量に送り込まなければならない。しかも途中でその蒸気を止めないと皮はパリッと焼きあがらない。そんなことは従来のパン窯では無理な話で、現在でも家庭用オーヴンではむずかしい。それを可能にしたのは業務用の蒸気オーヴンというものだった。このオーヴンのおかげで、質の悪い粉にもかかわらず、あの独特のおいしいパンが生まれたのである。蒸気窯の登場は、イギリスでは一九世紀末のことであったが、フランスでは一九一〇年まで、旧来のパン窯が全土で使われていたという。(256/257頁)

パンの価格は、仕入れたムギの価によって決まる。ところが中世のパンは、ほとんど値段が変わらなかったのである。というのは、ムギ相場の変動をパンの価格でなく、目方(大きさ)で調整していたからである。たとえば、オーストリアでは一グロッシェンで買えるパンを「一グロッシェン・パン」、同様に「一クロイツァー・パン」、ドイツでは「一ペニヒ・パン」などと呼ばれていた。(264頁)

パン屋に対する刑罰には、重量不足(小さすぎる)、粗悪な質だけではなく、変わった理由づけもある。例えば一五四〇年、ドイツのヴィンツハイムのパン屋は、パンが小さすぎたために五グルデンの罰金を払わされた。すると今度は「傲慢から」大きすぎるパンを焼いたという廉で、二倍の一〇グルデンもの罰金をとられたというのである。(270頁)

しかし罰金刑ですむならまだしも、中には重い刑罰を受けたパン屋も多くあった。パリやロンドンでは、目方不測のパンを首に掛けられ、手足を縛られ、街角でさらし者にされたり、市中引き回しの目にあわされたりした。さらに強烈なのは、ドイツ、オーストリア、スイスなどのゲルマン人の刑罰である。悪徳パン屋は椅子に座らされたり、籠や檻に入れられ、衆目の中、川に頭まですっぽりと漬けられる。いわゆる「パン屋の洗礼」と呼ばれていた名誉棄損刑である。こうした水責めで死ぬことはなかったが、目方の不足分一ロート(約一六グラム)につき一回の割で、水に漬けた所もあったというから大変厳しい。(272頁)

修道院で行われていたパンのほどこしは、文書からも知ることができるが、建築物自体にもその跡を留めている。[中略]
宿を乞うて修道院の門を叩いたのは、他所の修道院長や司教座聖堂参事会員などのような高位聖職者、王侯貴族などもあれば、修道僧、世俗の旅人、物乞いの貧者、放浪者、虚弱者、病人などもいた。こうした人びとに、たとえばコルビー修道院では、パンだけでなく、ビールやワイン、野菜、チーズ、ベーコン、ときには肉までをあたえたという。[中略]
九世紀後半になると、この活動はさらに発展し、接待の部署が二局にわかれる。来訪者を馬に乗ってくる長者と、徒歩で来る貧者に区別し、長者接待局と貧者接待局がそれぞれに対応するようになった。貴賓や長者が宿泊する場合は、多額の寄付を申し受け、それも貧者接待局の方に回したのである。
クリュニュー修道院では、貧者が食べ物や宿を乞うとパンを一日に一ポンド(約五〇〇グラム)、ワインを一マス(****)与え、出発の時には弁当ももたせた。さらに貧者接待係りは毎週修道院の周壁の外へ出て、近隣の村の病人や大勢の子どもたち、寡婦、障害者、そして飢餓や天候被害で援助を求める農民を訪ね、パンやワインを配ってわまった。( 278/280頁)

最後の晩餐でイエスがパンを割いて弟子たちに与えたのは、家長がそうする習慣だったからである。パンを分かち与える者が、一族の長たりえたのである。英語の Lord は loaf ward 〈パンを管理する人〉を意味し、Lady は loaf dige 〈パンをこねる人〉を意味していた。ともに命をあずかっていたのである。「パンをともにする」という言葉から、company や companion という言葉がうまれた。パンを分かち合う仲間が、共同体なのである。( 287/288頁)
 --舟田詠子『パンの文化史』(講談社学術文庫 2013.12)
この書の原本は1998年に朝日新聞社より刊行されたと断りがあるが、その年より新しいデータも含まれているので、文庫本にするに際して何か所か増補がなされたようだ。
* 穀物蒸留酒(焼酎)を指すこともある。酒場でビール・ジョッキの横に小さなグラスを並べて交互に飲んでいる光景をよく目にするが、小さな方が「コルン」である。
** 「東プロイセンの人は《部屋》を Raum とか Zimmer と言わない ―― Stube と言うのだ」と、東プロイセン出身の作家H・H・キルストは書いている。 ( "Die gute Stube des Landes": In: Hans Hellmut Kirst: Deutschland deine Ostpreußen. ) 19世紀のベルリンを舞台にした小説などにも《居間》あるいは《客間》のことを die gute Stube と呼ぶ言い回しは頻繁に出てくる。
*** 季節の祝祭、また洗礼、結婚式、葬式にあわせてさまざまな形の「造形パン」 Gebildbrot が焼かれる。ブレーツェル Brezel もその一つ。8字パンとか、8の字型パンとか訳されることが多いが、「め」の字に似た形、とは初めて見る表現だ。こちらの方が実際の形をよく写している。
**** マース Maß (約1リットル)か。

ルフトとロフト

書棚の埃を払っていて、ショーペンハウエル『みずから考えること』をぱらぱらしていると、目立って数多くの横文字が混じるページがあった。「言語と単語について」という章で、いくつかのドイツ語単語について諸国語と比較しているところだ。中に、むかしは読み飛ばしていたのだろうが、以下のような記述があった。
ドイツ語の Luft という単語はアングロサクソン系の単語で、いまなお、ドイツ語の hoch にあたる英語の lofty や、ドイツ語の der Boden 、フランス語の le grenier にあたる英語の the loft として保存されている単語から来たもので、これは人々が初めのころ Luft という言葉によって単に das Obere または die Atmosphäre を表すにとどまっていたからです。
なるほどそうかと思った。Luft は「空気、大気」、英語の air で、ドイツを代表する航空会社 Lufthansa でおなじみの言葉だ。loft は「屋根裏部屋、物置部屋」だが、ホビー・雑貨専門店の名称として知られているのではないか。その二つが同じ系列の言葉だったとは知らなかった。まさか語源俗解 Volksetymologie ではあるまいか、などとこの大哲学者に対して失礼千万な疑いをもったわけではないが、オンライン辞書の Duden (Duden online) で Luft を検索してみた。
Bedeutungen
1. a. (die Erde umgebender) hauptsächlich aus Stickstoff und Sauerstoff bestehender gasförmiger Stoff, den Mensch und Tier zum Atmen brauchen
  b. Atemluft
2. freier Raum über dem Erdboden; Himmel[sraum]
3. schwacher Wind; Brise; Luftbewegung
4. (umgangssprachlich) freier Raum, Platz, Spielraum [der an einer Stelle (unerwarteterweise) vorhanden ist]

Herkunft
mittelhochdeutsch, althochdeutsch luft, Herkunft ungeklärt
この語義 4. の説明が、まさしく「ロフト」であるが、語源 は 中高ドイツ語、古高ドイツ語に luft があることを示しながら、”語源不詳” としている。それより古い祖先は見つかっていないのか。それではと、真打のグリム辞書 Das Deutsche Wörterbuch von Jacob und Wilhelm Grimm をオンラインで検索すると、
LUFT, m. und f. aër. ein gemeingermanisches wort: goth. luftus; altnord. lopt; alts. ahd. mhd. luft, ags. lyft, engl., jetzt veraltet lift; niederl. und in niederd. dialekten mit übergang der labiale in die gutturale lucht. das altn. lopt bedeutet auszerdem das obere stockwerk und den bodenraum eines hauses, eine bedeutung die sich im schwed. dän. loft fortsetzt (wo sonst für den begriff aër die form luft eingedrungen ist), die auch das englische im nordischen lehnwort loft aufgenommen hat, und die selbst ähnlich im niederdeutschen sich findet: lucht das oberste stockwerk im hause, ein kornboden. brem. wb. 3, 31.
語義が aër とラテン語で与えられているのは、この辞典の流儀である。名詞の性について m. und f. とあって、現在では女性名詞のこの語が男性としても用いられたことを示している。語の由来をゴート語や、古ノルド語、古ザクセン、古高ドイツ語、中高ドイツ語、古英語(古アングロサクソン)まで辿っている。ここまで遡っても "語源不詳" とはつまり祖語が分からないということか。古ノルド語 lopt に「屋根裏部屋」の意味が加わり、これがスウェーデン語、デンマーク語には loft という形で伝わったが、「空気」の意味では luft の形が生じて、両者が併存することになったという。多言語オンライン辞書 bab.la で調べると、現在も確かにその通りだ。英語は語形が分かれた後の loft を受け継いでいるということらしい。

研究社の「新英和大辞典」で loft を引くと語義の 7a に《古》として「空、上空」があり、"in the loft of the morning" 「朝の空に」という用例が挙げられている。語源欄には、グリム辞書と同様、古ノルド として lopt を挙げ、その意味を sky, air, upper room としている。

それにしてもショーペンハウエルはどうして、この語に関心を持ったのだろうか。彼は哲学者として当然のことかも知れないが、言語や文体について並々ならぬ関心と独自の見解を持っており、ドイツ語の系統については、一般に行われる分類ではなく、自分はラスク(*)の説にひかれていると言って、次のように述べる。
サンスクリットから系統をひいているゴート語は三つの方言に分かれて、スウェーデン語、デンマーク語およびドイツ語になったのです。――古代ゲルマン人の言語については、なにひとつ、私たちには知られていません。そこで、わたしは、そのようなある種の言語は、ゴート語と、いいかえればわたしたちのドイツ語とも、まったく異なったであろうと、想像してもさしつかえないように思います。すなわち、わたしたちは、少なくとも言語から考えると、ゴート人なのです。なにしろ、わたしにとっては、インド=ゲルマン系の言語という表現ほど、いやな気持を起こさせるものはほかにはまったくないのです。――というのは、この表現は、尊いヴェダの言語と、ゲルマン人ごとき熊の皮にねそべって暮らしていた怠け者の使っていたえたいのしれないジャルゴンとをいっしょくたにするようなばかげた行いであるのですから。
  --ショーペンハウエル『みずから考えること』(石井正訳、角川文庫 1966)
おもしろいですね。この厭世の哲学者は、熊の皮にねそべって暮らしていた怠け者の末裔として、真夏に語源遊びのひと時を提供してくれました。小生にはいい暑気払いとなりました。
* ラスムス・クリスチャン・ラスク Rasmus Christian Rask (1787-1832) デンマークの言語学者。「グリムの法則」と呼ばれる、 ゲルマン語、ラテン語、ギリシャ語の子音推移の法則をグリム兄弟に先立って発見していたことで知られる。

付記:石井正訳『みずから考えること』のテキストは、原語に付された訳を省略するなど、一部変更して引用させていただいた。

サマータイム

今年も10月26日でドイツのサマータイムは終わって、日本との時差が7時間から8時間に戻った。ヨーロッパは時間帯が3つに分かれていて、西はグリニッジ標準時による時間帯、それより1時間早い中央ヨーロッパ、さらに1時間早い東ヨーロッパの時間帯となっている。ドイツは中央ヨーロッパ時間 Mitteleuropäische Zeit (MEZ) のゾーンにある。

いずれの時間帯に属する国でもサマータイムは3月最終日曜日に始まり、10月最終日曜日で終わるようだ。夏時間と呼ぶからには、夏の暑い季節にしばらく用いる、というような印象を受けるが、実は7か月もの期間に及び、通常時は5か月で、こちらの方が短いのである。要するに長い日照時間を有効に使うとの趣旨だからこうなったのだ。

日本でも短期間ながら夏時間が導入されたことがある。私にも、父親が柱時計の針を前後させていた光景が遠いかすかな記憶として残っている。調べてみると第二次大戦後の連合軍の占領統治時代、1948年から51年まで、4月~9月に夏時間が実施されていたようだ。

さて、時間切り替えの具体的な手順についてご存知だろうか。ドイツでは(他の国も同じだろうが)夏時間に移行するとき、すなわち3月の最終日曜日は、時計の針は午前1時57分、58分、59分と来て次は3時00分になる。2時台を飛ばして夜の時間を短くするのである。逆に夏時間を終えるときは10月の最終日曜日、時計の針は午前2時57分、58分、59分と来て次はまた2時00分になる。2時台を繰り返して夜の時間を長くする。

切り替えを日曜日の午前2時、3時に設定したのは日常生活に最も支障の少ないタイミングを選んだものだろう。休日でもあり、困る人はあまりいないと推測される。国中の公的な時計は正確無比な原子時計に接続した無線で制御されているし、家庭でも電波時計が普及していて、人間の手で時針を調整することは少なくなっている。

サマータイムの仕組みについて取り上げたドイツの子供向けテレビ番組をいくつか見たが、夏時間終了の日、夜行列車が午前2時前に到着した駅で1時間停車して、運転士はサンドイッチなどを食べてのんびり過ごしている様子がいつも映される。しかし、この映像を見るたびに、では開始の日はどうなのか、と思ってしまう。いつも夏時間終了の日の夜行列車ばかりを見せられて、夏時間が始まる日の列車はどうなのか教えてくれない。まさか猛スピードで次の駅に1時間早く到着するわけはあるまい。きちんと調べればわかるのだろうが、ものぐさ者にはこの疑問はいまだに解消されないままである。


教養教育

新聞紙上でいまどき珍しい(と思われる)文章を目にした。それは「大学の未来は教養教育から」という寄稿文だ。日本の大学について問題の指摘や改革の議論は相変わらず賑やかだが、改革の指針を「教養教育」に求める意見が近ごろの新聞に現れることはごく稀なことではないか。

なにしろ最近の「教養」の凋落ほど激しいものは他にないからだ。いまどきの大学生の生態を目にして、彼らは本を読まない、教養のかけらも感じられないと、内心で嘆いている大学教師も多いはずだ。しかし昔と違って「教養」なるもののご威光はすっかり薄れてしまった。「教養」などを持ち出せば年寄りの繰言か、押し付けがましい説教臭をともなう言辞に成り下がった、というのが一般の受け取り方ではないか。

実は大学の制度のうえからも「教養」は影が薄くなっている。1991年の「大学設置基準の大綱化」でそれまで開設授業科目を「一般教育科目」、「専門教育科目」、「外国語科目」、「保健体育科目」に区分してそれぞれの修得単位数を定めていたところを、これらの区分や単位数などの規定が撤廃された。この結果、大多数の大学で従来の教養部・教養課程が解体され、人文・社会・自然の3分野からなる「一般教育科目」および英語以外の「外国語科目」が極端に縮小、あるいは完全に消滅という事態が生じた。すなわち教養よりも専門重視という姿に他ならないだろう。

さらに国際化の推進という掛け声の下、大学の選別、格付けが進んでいる。専門職大学院(ビジネススクール、ロースクールなど)の開設、また2002年から始まった「21世紀COEプログラム」、さらに2007年からの「グローバルCOEプログラム」などの予算重点配分、研究拠点の形成によって大学間の競争が激しくなった。このように環境が激変する中で、小規模校を中心に定員割れ大学が続出するなど深刻な問題も生じている。

こういうご時勢にあって、「大学の未来は教養教育から」とはどんな趣旨なのだろう。この文章によると大学の未来像を巡る最近の議論には、二つの極端な態度があると述べている。
ひとつは、政府は無用な心配、余計な干渉をしないで、そのまま「成り行き」に任せるという姿勢だ。競争による淘汰があり、少子化現象も確実に作用し、需要と供給の法則通りに大学の数と質の最適な配置図ができ上がるというもの。いまひとつは、現況のままでは日本の高等教育の根本問題は改善されず、日本は経済競争だけでなく知的・文化的な競争にも敗れざるを得ない、だから次々と対策を打ち出さねばならないという強迫観念に襲われることだ。
そしてそのいずれもが無責任で軽佻浮薄のそしりを免れない、前者は研究と教育を大衆社会の「裸の競争」にゆだねることの危うさを考慮していないし、後者は現状のどこが問題なのかをゆっくり考えずに政策目標を立ててやみくもに突進してしまう可能性があると批判する。いずれも短期的な効果を狙った行動に支配されやすい。教育も研究も効果が表れるにはある程度の年月が要るもの、予算配分など、成果への報酬を刺激として大学に格差をつけるというのが最近の傾向だが、競争の強化が必ずしも優れた業績を産むとは限らない。

寄稿の筆者は、これからは研究大学院大学、専門職大学院、教養教育大学、技術教育中心の工科大学、医科大学など、大学のタイプがもっとはっきり分化してゆくだろう、こういう中で大学は、大学でしかできない教育を引き受けるべきだ、と言い切る。今後、情報や知識は大学以外の場所から得られる可能性がさらに高まる、
したがって、大学は、生半可な実務教育をほどこすのではなく、数理的な訓練と、国際的な知的競争の場で求められる言語表現を核とした教養教育に力を注ぐ必要がある。英語教育を小学校からとか、「感じたことをそのまま書きなさい」といった散漫な作文教育ではなく、古典を含む人文学や社会科学の遺産をよく学び、自らの考えを、まず母語で正確にそして豊かに語る能力、説得力のある文章を書く技術を養うことが、これからの大学の教養教育の中核を占めるべきだと私は思う。
  --猪木武徳「大学の未来は教養教育から」(毎日新聞 2014.11.10 朝刊)
大学関係者のあいだでは「大綱化以降」というフレーズがよく飛び交ったが、あれから四半世紀が経とうとするいま、「大学の未来は教養教育から」という主張には目を見張らされますね。もちろん「大綱化以前」の教養教育を復活させよと主張されているわけではありません。「数理的な訓練と、国際的な知的競争の場で求められる言語表現を核とした教養教育」とは、どちらかというとかつてのヨーロッパのリベラルアーツの考え方に近いような気がします。言語系3学(文法・論理・修辞)と数学系4学(算術・幾何・天文・音楽)で構成される自由七科ですね。

猪木武徳氏は、小生は不明にして存じ上げなかったけれど、著名な経済学者で、専門の業績のほかに大学教育をめぐる多くの論考・著書があり、また海外の大学での教授経験も豊富な方である。図書館で同氏の『大学の反省 (日本の<現代>11)』を見つけて一読しましたが、氏は筋金入りのリベラルアーツ派のようですね。たとえば次の箇所などはどうか。
確認しておきたいことは、産業革命以降の歴史を辿ると、大学は教養教育に対する不満や(時として)攻撃的とも言える批判につねに曝されてきたという事実である。その典型的ともいえる例は、米国の貧しい田舎の少年から刻苦勉励して鉄鋼王となったアンドリュー・カーネギー(一八三五-一九一九)の次のような発言であろう。「一九世紀後半の伝統的なカレッジ教育は、卒業生を他の惑星に住めるようにしているようなものだ。シェイクスピアやホーメロスを学ぶために時間が浪費された」。 こうした見方に対して、ソースタイン・ヴェブレンやアプトン・シンクレアが、高等教育に商業主義を持ち込むことに強く抗議する書を著したことは周知の通りである。
  --猪木武徳「大学の反省 (日本の<現代>11)」(2009 NTT出版)
小生も現役時代に「専門」科目の先生たちから同じ類の批判を何度も聞かされました。「いまどきシェイクスピアの英語なんか習ってなんの役に立つのか」。外国語は「会話」(格好をつけて「コミュニケーション」とも言う)を教える科目だと、いまでは多くの外国語の先生も思っています。自分の受けてきた授業を省みると、高校の英語でもサマーセット・モーム、大学ではシェイクスピアはもちろん、ポープ訳のホメロスまで習いましたね。ドイツ語では短い物語やエッセーを読みましたが、そのときの先生は「昔は半年文法を習ったら、次はカントの『純粋理性批判』を読まされたものだ」などとおっしゃっていました。外国語科目ははっきり「教養」科目でした。

同じ「日本の<現代>」シリーズに、苅部直『移りゆく「教養」』(2007) もあって、ついでに借り出して読みましたが、「教養」の問題に関して広く深く目配りのきいた内容だと感心しました。