〜匿名寄付団体の正体〜
ほんとうに、棚田嘉十郎の名が書かれているんだね?宮跡の議を首唱しとは、間違いなく文字になっているんだね、趣意書を読み上げる妻のイエの言葉に耳を傾けながら念を押した。「間違いなく書かれていいますよ」「そうか、うれしいことだね」趣意書には嘉十郎のこれまでの努力が讃えられているのだ。
保存会の歩みも、着実に前に進んでいた。寄付金の方も、徳川頼倫侯爵の知名度に加え、財界の超大物者で構成された発起人の存在が大きく貢献し、順調に集まっていると言う。「植木職の自分とは大きな違いだ」
保存会の進展は嘉十郎にとって願ってもない喜びであった。その一方で、自分のはたす役割りがない寂しさを感じる時があった。そんな嘉十郎の心の隙を見据えたように、平城宮跡保存会に匿名で寄付したいと一人の男が訪ねて来たのだ・・・・・・・・・・・・。
大正十年(1921年)八月十六日 嘉十郎は眸を閉じ、いま一度、なんのために死を覚悟したのかを自分に問い返した。不徳を偲び、自責の念にかられて死ぬのではない。死をもって匿名寄付団体の不正を訴え、諫言するもである。しかし、死がはたして平城宮跡の保存を願う職者たちの心を喚起することが出来るのであろうか、不安は消えなかった。しかし・・・生命が神聖であり、尊厳なものであるとすれば、その神聖で尊厳な生命を絶つとすれば少なからずの動揺を与え、死の是非をめぐって宮跡保存の理非が心ある人達により糺されるに違いないと、信じるしかないのだ。
白装束に身を固めた嘉十郎は、息をとめて短刀を咽喉もとに突き立てたのだ。
棚田嘉十郎、万延元年(1860年)大和国須川村に生まれて六十一年 平城宮跡保存に生涯を賭けた男の最後であった。
同年の八月二十二日に匿名寄付団体が宮跡の工事を中止する。十月十二日には内務省の告示第二百七十号でもって平城宮跡は「史蹟名勝天然物保存法」の規定を受けて保存地に指定される。十月二十四日、匿名寄付団体が宮跡の土地六町余りを保存会に贈与。
翌年大正十一年(1922年)六月二十二日、平城宮跡を保存するうえにおいて、保存会の事業を終了。保存会が所有する土地を内務省に寄付することで、平城宮跡は国の指定史跡として永久に国が管理することになったのだ。
岡部長職子爵は嘉十郎の死を悼み、自ら「平城宮跡保存首唱者 棚田嘉十郎墓」と墓標を東大寺の近く空海寺に建立。奈良県は平成2年8月16日に平城宮跡朱雀門前の公園に「棚田嘉十郎翁顕彰碑を建立。平成10年12月平城宮跡が「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録された事は、文化遺産を舞台に生活を営む人達が、それを未来に活かして行こうとする奈良県民を始め日本国民の決意が世界に認められた。
<お詫び>
平城遷都1300年祭のもてなしボランティアとして遷都祭に参加する中で、平城宮跡の保存者棚田嘉十郎氏の名前を知り、一人でも多くの人に棚田嘉十郎氏の功績を知って頂きたく、著者中田善明氏の「小説 棚田嘉十郎 平城宮跡保存の先覚者」を引用致しました。私が選んだエピソードを、抜粋との形で掲載させて頂いている事をお許し下さい。もし問題がある場合はメールにてお知らせ下さい。平成22年8月13日 管理人