志貴親王御忌(しきしんのうおんき)

白毫寺は天智天皇の皇子志貴親王の山荘を寺としたと伝えられてい
る。親王の死去された時の歌、”高円の野辺の秋荻いたずらに咲き
か散るらむ見る人なしに”は笠朝臣金村によってつくられ、万葉集
にも収められている。その歌碑が昭和55年9月14日境内に建て
られたのを機に、親王の菩堤を祈る法要が15日に行われている。

芝能

「芝能」は、文字どおり能舞台を設けずに古式ゆかしく自然の芝の
上で舞われるのが特徴で、春日の神山を背景にしてしばしの間、見
る者を幽玄の世界へと誘う自然の中の雄大な能行事である。

采女祭(うねめまつり)

猿沢池の北西の隅には鳥居を背にした後ろ向きの采女神社がある。
帝の寵愛が衰えたのを嘆き、入水した采女を慰めるために社が建て
られたが、身を投げた池を見るに忍びず一夜で後ろ向きになったと
言われている。午後5時から秋の七草で飾った花扇を引いた稚児や
十二単衣の花扇使と姉妹都市大和郡山市のミス采女が市内を練り歩
く。その後花扇や花扇使を乗せた龍頭般が猿沢池に繰り出され、池
を回った後、花扇を水面に浮かべる。

讃仏観月会 唐招提寺

 名月の日に金堂の扉を特別に開いて行われるお月見。月が現れる
と堂内が明るく照らされ天平の甓や諸仏が月光に浮かび上がる様
は、夢の世界である。

鹿の角きり

角きりは人害防止のため江戸初期の寛文年間、南部奉行の手により
奈良町の袋小路などで行われていたが、明治24年から春日表参道
を区切って鑑賞席設けて行われるようになり、昭和4年には新しい
鹿苑が完成してその一部に角切り場も設けられた。
角伐は1回に5・6頭の雄鹿を入れ、勢子によって取り押さえ、の
こぎりで角を切り落とす。奈良でしか見られない珍しい行事。

転害会 手向山八幡宮・転害門

 転害会は、当神社が奈良時代に東大寺境内に祭られて以来の古い
歴史を持つ祭である。転害門での祭式が中心となるのでこの名がつ
いたと思われる。この日、同神社の神体で明治の神仏分離の際に東
大寺八幡殿に移された国宝の僧形八幡像が特別開扉される。

翁舞

春日王の病気平癒のため、この神社に第一皇子浄人と第二皇子安貴
王が祈願の舞を奉納したのに始まると言われる。8日の宵宮祭り
は、午後7時ごろから同町にある翁講によって、式三番叟が演じら
れる。三番叟と千歳の問答に、能狂言発達以前の古い形が残ってお
り、奈良県の無形民俗文化財にも指定されている。

田楽横とび(三角とび) 丹入神社

 人数は7人年齢順で年頭よりささら1名、鼓1名、太鼓2名、横
笛3名で構成。楽に合わせてまずささらが舞台中央にささらをたて
て、扇子にて仰ぎながら三回廻る次に三角に横とびをして廻る、同
様な動作を鼓と太鼓の3名が行い、五穀豊穰と村の安全を願う行
事。昔は能面をつけていたが能面が県の重要文化財に指定されたた
め現在は面をはずして行っている。

秋祭り 九頭神社

毎年素朴な翁舞を始め田楽・神飛びといった芸能が奉納される。翁
舞は一人舞で三老が行い、田楽というのは5人の子供達が、太鼓3
人、鼓1人、ささら5人の構成で「ヤーヤー」と掛声をかけて右に
九回回る素朴な行事である。神飛びは上座頭と下座頭が背中合わせ
になり、笛の音につれて2人が左へ左へと三角の形に飛び、最後に
元の位置に戻り、それを9回繰り返す事になっている。
太刀拝は神宝の太刀を担ぎ3歩進み、右耳に挟んだ紙片を神前に供
えて後に下がる、これを5回行う。
相撲は「ダラケフンドシ」をつけた上座頭と下座頭が向かい合って
肩を組み、左廻りに4回飛ぶ。

大祭 戸隠神社(とがくれじんじゃ)

 16日宵宮祭、17日の渡御式は神社は神社から200メートル
先の御旅所に着き神饌物を供えて祭典儀式を行う。当日は太古台を
擔ぎ出し、男児4名女児4名の乗子は揃いの衣装で、擔ぎ手は男女
氏が揃いのハッピ姿でチヨウイソラ、ヨンヨンヨイソレ、ソラサセ
と掛け声を張り揚げ氏子や里帰り客多数の見物者の祭気分をわかせ
ている。

大般若会 興福寺

 南円堂本尊不空羂索観音像の宝前で、大般若経の転読が行われ
る。当日、普段は秘仏になっている国宝不空羂索観音像の特別拝観
も許されている。

正倉院展

正倉院は普段は非公開であるが、年に一度、奈良国立博物館で御物
の特別展示が行われる。宝物には、聖武天皇遺愛の品や東大寺の法
会に使用された法具など中国の珍器、ペルシャ、インドの工芸品な
ども含まれ、国際色、種類共に豊富である。この期間、正倉院校倉
外構も公開される。

慈恩会(じおんえ)

法相宗の開祖、唐の慈恩大師窺基の忌日に、慈恩大師の画像を掲
げ、大師の遺徳をたたえる法要。同じ法相宗大本山の薬師寺と1年
交代で西暦の偶数年は薬師寺、奇数年は興福寺において行われる。
この法会の起源は天暦5年(951)、当時の興福寺別当であった
空晴の発願で始められたと伝わっている。

七五三

 子供の成長過程に応じて母親の里から衣類を送る習慣は、もとも
と中国の元服の思想によるものといわれ、宮中や貴族の間では3歳
の髪置、5歳の袴着7歳の帯解が儀式として行われ、神詣でするし
きたりが七五三の詣りである。

写経会(しゃきょうえ)

写経会は午前8時、同時の閼伽井の井戸から当日使用される浄水の
汲み上げの儀から始まる。次いで御影堂で写経会の無事を祈る法要
があった後、午後9時から写経に写る。会場は薫香で清められ、参
加者はまず塗香して手を清め、入り口に備え付けの薫香をまたいで
全身を清めて入場、般若心経を手本に静かに写経。一心に筆を運ぶ
境地はまったく無我の境といえよう。(申し込み必要)