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特集 600万円住宅とは?

第2回

私は昭和52年に大学の建築科を卒業しました。大阪の住宅会社に就職しまして住宅設計を手がける訳ですが、当然乍ら私生活においても人よりマイホームに対する執着心は強かったように思います

但しマイホーム資金は殆どゼロでした。新聞のチラシや自分が設計している住宅を見ながら、いつかは自分も・・・と思いつづけているだけでした。

「思い続ければ希望は叶う」もので意外に早くチャンスは来ました新聞の三行広告に売り土地の見出しを見つけました。奈良の王寺バス20分45坪 13万/坪なる広告でした。当時でも大阪市内と名が付けば60万/坪が相場でしたから桁外れに安く感じました。

早い者勝ちと早速手付けを打ちに現場で売り主と会ったのですが、その現場と言うのが昭和40年代前半に開発された土地の残地で200区画程あった区画のほとんどが荒れ地同然になっていました。

親と散々迷った挙げ句ままよと半ば衝動買い同然で買ってしまいました。勿論ほぼ全額ローン。当時の金利は今から思うと8%と言う法外なものでした。買った土地の事はさておきローンの返済だけで頭が一杯になり建物にたいする夢も現実の前に醒めたものになってしまいました。

4年程たって私にも恋人が出来てそろそろ結婚しようかなと言う話まできて、新居の問題が持ち上がりました。勿論貯金なんてありません結婚資金もありません。途方に暮れながら彼女に洗い浚い話しやっぱりこんな状態で結婚しても・・・・・・と言いかけて名案(迷案)が浮かびましたそうだ!!家を建てよう!!

商売柄住宅ローンについては明るくなっており人に説明する立場になっていましたから自分がいくら借りられるかすぐに判ります。住宅金融公庫と大阪府から800万円借り650万円で家をたて50万円を引っ越し等準備費に100万円を結婚資金にしました。

当時でも普通に建てていれば650万円では15坪ぐらいの家しか建ちません私たち夫婦と私の親との二世帯住宅ですから切りつめても25坪は必要です将来子供が出来れば35坪〜40坪の家が必要です。

そこで将来増築が簡単に出来る様に当初から考えた計画をしました。当面は必要な部分だけを作り、広く世間に流通しているありきたりな材料だけを使い、大量生産の恩恵をもろに受ける設計をしました。

設計料は勿論タダ。ガス工事もプロパン業者に将来継続してガスを使うのだからと説得してタダにしてもらい、各業者さんと直接契約する直営方式をとりました。現場監督も私が行いました。

(平屋部分が将来増築部分です)

住み始めると近くに病院ができ、表通りにダイエーができ小学校や中学校ができバスの本数も10分に1本になり、あれよあれよと言っている間に立派なベッドタウンになってしまいました。

しかし快適になればなるほど自然が消えて行き、裏山がなくなり小川に魚がいなくなり、いささか住みにくくなってきたかな と思う様になりました。

バブルの走りだったのです。

                   以下次号

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